パラリンピックが去って政局喧しい総裁選の動きが出てきました。安倍政権を引き継いだ菅政権は予想通り短命に終わるようです。安倍カラーは国民にとって飽食気味のところ、それを引き継いだ後は何の独自色も出せなかった菅総理なので、期待が集まらなかった。政局を支配していたのはコロナの影、黒子が見えつ隠れつから堂々の白昼舞台に躍り出て、主役を袖にする今様の戯画だと云っても笑えない話だろう。総裁選で誰が総理になろうと、コロナに変わって主役を取り戻すのは無理難題である。
夢の如く幻の如く、パラリンピックは影をひそめて、文字通り幻影となって瞼の奥に映し出されてきます。ハンディを背負いながらも、持てる力を十分に発揮して戦った選手たちの感動場面がよみがえる。感動を呼ぶものは何だったのか、と自問してみると、自分の限界に挑む、チームワークで他者と競り合う、オリパラ共通しているこれらだけの要素ではない何かが、競技を見ている私たちに訴えてくるようだ。「制約された環境」にも拘わらず、私たちの予測を超えた精神的パワーが、私たちのハートを射貫いたからではないか。吃驚すると同時に尊敬の念が湧いてくる。観戦者の我々は持てる力を十分に発揮していない凡庸な存在なのだと気づかされる。自分を精一杯生きると覚悟するのは、後々の黄昏人生になってからで、物事に一所懸命に対処する気概も色褪せて、落日のごとく沈んでいく。
一般大衆の感性は、明日への希望に寄りかかっているので、現在という時間は悠長に過ぎてしまう。切迫感が乏しいと言えばそれまでで、為す術もない。