Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インキネン/日本フィル

2014年11月15日 | 音楽
 山田和樹(9月)、ラザレフ(10月)と続いた日本フィルの定期。今月はインキネンだ。

 1曲目はシベリウスの交響詩「大洋の女神」。終演後のアフタートークでインキネンが話していたが、マーラー(今回は第7番)と組み合わせて、シベリウスのあまり演奏されていない曲を紹介したいとのこと。併せてワタナベ(渡邉暁雄)以来のシベリウス演奏の伝統がある日本フィルと自分とをつなぐものとして、シベリウスを演奏していきたいと。

 「大洋の女神」は交響曲第4番と第5番のあいだに書かれた曲だ。グロッケンシュピール(鉄琴)の使用が第4番と共通していて微笑ましい。

 冒頭の弦が繊細きわまりない音だった。細い繊維が風に揺られて、そこに日が射し、透けて見える――といった感覚の音。だが、途中から波が渦巻くような部分では、もっと暗い音色がほしいと思った。

 2曲目はマーラーの交響曲第7番「夜の歌」。精細で明るい音という基調はこの曲でも変わらない。マーラーの中でも最大級の編成だが、けっして咆哮せず、薄いテクスチュアーを丹念に織り上げていく。

 そう思って聴いていたら、第5楽章で思わぬ発見があった。いつもは唐突で、なんだか座りの悪い、躁状態の音楽だと思っていたが、この演奏では、むしろ自然で、こうでなければならない音楽のように感じられた。

 もう少し実感に即していうと、第1楽章から第4楽章までの質量の総量を、この第5楽章が受け止め、それを別次元に止揚する――そんな凝縮した質量を備えているように感じられたのだ。だから、第5楽章はこの音楽でなければならないと。

 こんな経験は初めてだった。それはインキネン/日本フィルの演奏に由来する。第4楽章までの一見淡々とした演奏は、第5楽章の(とくに冒頭テーマの)誇張のない演奏とまったく断絶がなく、まっすぐつながっていたからだと思う。

 従来はこの曲を文学的に解釈し過ぎていたのではないか。いや、文学的に解釈できないので、苛立っていたのではないか。もうそろそろ、第5楽章をめぐる議論には、終止符を打つ時期ではないだろうか――と、そんなことを思わせる新感覚があった。

 個々のプレイヤーでは若きホルン奏者、日橋辰朗さんに感心した。切れ味の鋭い演奏だった。そういえば最初に日橋さんに注目したのも、インキネンが振ったときだった(「ワルキューレ」の第1幕)。
(2014.11.14.サントリーホール)
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