日生劇場の「アイナダマール」。ありがたいことに、公演に向けてのプレイベントが充実していた。わたしが参加したのは、6月のプレコンサートと8月の演劇公演「マリアナ・ピネーダ」(ロルカの戯曲)。プレコンサートでは石塚隆充(いしずか・たかみつ)というカンタオール(フラメンコ歌手)を知り、「マリアナ・ピネーダ」では「アイナダマール」の背景となるロルカの戯曲を知った。
「アイナダマール」は待望の公演だった。以前に他団体が取り上げようとしたが、諸事情により中止となった。それを日生劇場が引き継いだのだろう。そのお蔭で――というとその団体には失礼になるが――上記のような事前準備を経ることができた。
心配していた歌手は――というのは、いつも歌っている音楽とは若干ちがう音楽だからだ――、主要な3歌手とも上出来だった。横山恵子と清水華澄は、さすがに経験豊かな歌手らしく、情熱を込めた歌だった。初めて耳にする見角悠代(みかど・はるよ)には瞠目した。しっかりした歌だ。プロフィールによると、2009年の東京室内歌劇場の「グラン・マカーブル」(リゲティ作曲)でヴィーナス/ゲポポ役を歌ったとのこと(わたしが観た日は森川栄子だった)。どうりで、という感じだ。
石塚隆充がすばらしかったのは言うまでもない。その歌声は今も耳に残っている。
粟國淳の演出も悪くなかった。実在の人物マリアナ・ピネーダ(1804‐1831)からロルカ(1898‐1936)へと、そして演劇「マリアナ・ピネーダ」の初演女優マルガリータ・シルグ(1888‐1969)を介して若い弟子ヌリア(モデルはあるが、創作上の人物)へと受け継がれていく人間への愛、そして自由への渇望を、きちんと舞台上で見せていた。
オーケストラには、クラシック音楽のオペラ(現代オペラ)とラテン音楽がミックスしたこの作品の、ラテン音楽の部分に、もっと弾けるようなリズム感があったら――と、それが実感だ。オーケストラのせいか、指揮者のせいかは分からないが。
合唱は、とくに最初の頃は、頼りなかった。‘ストリート・シンガー的なスタイル’(プログラムに掲載された長木誠司氏のエッセイの言葉)の歌唱なので、オペラ的な発声は必要ないが、もっと庶民的な活気がほしかった。
結局のところ、全体としては、もっと磨き上げてほしかった。仮に再演を重ねたらどうなるのか。
(2014.11.15.日生劇場)
「アイナダマール」は待望の公演だった。以前に他団体が取り上げようとしたが、諸事情により中止となった。それを日生劇場が引き継いだのだろう。そのお蔭で――というとその団体には失礼になるが――上記のような事前準備を経ることができた。
心配していた歌手は――というのは、いつも歌っている音楽とは若干ちがう音楽だからだ――、主要な3歌手とも上出来だった。横山恵子と清水華澄は、さすがに経験豊かな歌手らしく、情熱を込めた歌だった。初めて耳にする見角悠代(みかど・はるよ)には瞠目した。しっかりした歌だ。プロフィールによると、2009年の東京室内歌劇場の「グラン・マカーブル」(リゲティ作曲)でヴィーナス/ゲポポ役を歌ったとのこと(わたしが観た日は森川栄子だった)。どうりで、という感じだ。
石塚隆充がすばらしかったのは言うまでもない。その歌声は今も耳に残っている。
粟國淳の演出も悪くなかった。実在の人物マリアナ・ピネーダ(1804‐1831)からロルカ(1898‐1936)へと、そして演劇「マリアナ・ピネーダ」の初演女優マルガリータ・シルグ(1888‐1969)を介して若い弟子ヌリア(モデルはあるが、創作上の人物)へと受け継がれていく人間への愛、そして自由への渇望を、きちんと舞台上で見せていた。
オーケストラには、クラシック音楽のオペラ(現代オペラ)とラテン音楽がミックスしたこの作品の、ラテン音楽の部分に、もっと弾けるようなリズム感があったら――と、それが実感だ。オーケストラのせいか、指揮者のせいかは分からないが。
合唱は、とくに最初の頃は、頼りなかった。‘ストリート・シンガー的なスタイル’(プログラムに掲載された長木誠司氏のエッセイの言葉)の歌唱なので、オペラ的な発声は必要ないが、もっと庶民的な活気がほしかった。
結局のところ、全体としては、もっと磨き上げてほしかった。仮に再演を重ねたらどうなるのか。
(2014.11.15.日生劇場)