ホイッスラー(1834‐1903)とは幸福な出会い方をしたのかもしれない。あれはいつのオルセー美術館展だったか、「灰色と黒のアレンジメント:母の肖像」に惹かれた。文字どおり灰色と黒の沈んだトーンが印象的だった。その後オルセー美術館を訪れた折、再会を果たした。懐かしかった。
もう一つ、なにかの展覧会で「ノクターン:青と金色‐オールド・バターシー・ブリッジ」を見た。夕闇のテムズ川に花火が打ち上げられ、残り火が落ちていく。青いモノトーンの画面に金粉を散らしたような作品だ。そんなに目立つ作品ではなかった。でも、何気なく見ているうちに、不思議なくらい惹かれた。
どちらの場合も、ホイッスラーという画家の名前を覚えていたわけではない。作品を見ているうちにその名前が記憶に残った。そんな経験をへた上での今回のホイッスラー展。期待して出かけた。
充実の内容だった。前述の「ノクターン:青と金色」は今回も来ている。やっぱり惹かれた。よく見ると、上から落ちてくる残り火だけではなく、上に向かって打ち上げられた花火の軌跡も描かれている。記憶よりも華やいでいた。
前述の「母の肖像」は来ていなかったが、その姉妹作「灰色と黒のアレンジメントNo.2:トーマス・カーライルの肖像」があった。これも負けず劣らず力作だ。「母の肖像」は、母の向こうに大きなカーテンが下がっていた。なにか隠れているのではないかという不穏な空気を感じた。一方、「カーライルの肖像」にはそんな要素はなく、知的な、落ち着いた空気が支配していた。
今回もっとも惹かれた作品は「青と銀色のノクターン」だ。事前に本展のホームページで画像を見ていたが、画像では想像もできない深みがあった。夕闇に沈むテムズ川。対岸の灯りが川面に反映している。右端の灯りが橙色で、あとは黄色だ。建物の形は判然としない。1艘の艀が航行している。その艀も夕闇の底に消え入りそうだ。この川がテムズ川かどうかも定かではない。風景画というよりも、心象風景のような気がする。
一方、「白のシンフォニーNo.3」は典型的な唯美主義の作品だ。白い優雅なドレスを着た女性が白いソファーで寛いでいる。もう一人の淡い黄色のドレスを着た女性は、淡い青色の絨毯に座って、白いソファーにもたれている。‘白’の交響それ自体が目的の作品だ。淡い橙色の団扇がアクセントをつける。
(2015.1.9.横浜美術館)
↓各作品の画像(本展のホームページ)
http://www.jm-whistler.jp/point/index.html
もう一つ、なにかの展覧会で「ノクターン:青と金色‐オールド・バターシー・ブリッジ」を見た。夕闇のテムズ川に花火が打ち上げられ、残り火が落ちていく。青いモノトーンの画面に金粉を散らしたような作品だ。そんなに目立つ作品ではなかった。でも、何気なく見ているうちに、不思議なくらい惹かれた。
どちらの場合も、ホイッスラーという画家の名前を覚えていたわけではない。作品を見ているうちにその名前が記憶に残った。そんな経験をへた上での今回のホイッスラー展。期待して出かけた。
充実の内容だった。前述の「ノクターン:青と金色」は今回も来ている。やっぱり惹かれた。よく見ると、上から落ちてくる残り火だけではなく、上に向かって打ち上げられた花火の軌跡も描かれている。記憶よりも華やいでいた。
前述の「母の肖像」は来ていなかったが、その姉妹作「灰色と黒のアレンジメントNo.2:トーマス・カーライルの肖像」があった。これも負けず劣らず力作だ。「母の肖像」は、母の向こうに大きなカーテンが下がっていた。なにか隠れているのではないかという不穏な空気を感じた。一方、「カーライルの肖像」にはそんな要素はなく、知的な、落ち着いた空気が支配していた。
今回もっとも惹かれた作品は「青と銀色のノクターン」だ。事前に本展のホームページで画像を見ていたが、画像では想像もできない深みがあった。夕闇に沈むテムズ川。対岸の灯りが川面に反映している。右端の灯りが橙色で、あとは黄色だ。建物の形は判然としない。1艘の艀が航行している。その艀も夕闇の底に消え入りそうだ。この川がテムズ川かどうかも定かではない。風景画というよりも、心象風景のような気がする。
一方、「白のシンフォニーNo.3」は典型的な唯美主義の作品だ。白い優雅なドレスを着た女性が白いソファーで寛いでいる。もう一人の淡い黄色のドレスを着た女性は、淡い青色の絨毯に座って、白いソファーにもたれている。‘白’の交響それ自体が目的の作品だ。淡い橙色の団扇がアクセントをつける。
(2015.1.9.横浜美術館)
↓各作品の画像(本展のホームページ)
http://www.jm-whistler.jp/point/index.html