Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ノセダ/N響

2015年01月12日 | 音楽
 ジャナンドレア・ノセダ指揮N響。1曲目はフォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」。ほんのちょっとした(音楽上の)身ぶりがドラマを生む。フォーレならではのことだ。同時に、ノセダの指揮もよかった。オペラ指揮者だけある。ドラマの勘がいいのだろう。

 いうまでもないだろうが、声楽が必要な「メリザンドの歌」は省略されていた。当たり前すぎるのだろう、プログラムノートにも触れられていなかった。

 2曲目はプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番。プログラムノートには「20世紀最高のピアノ協奏曲の呼び声も高い。」と記載されていた。同感だ。よくできた曲だと思う。プロコフィエフの評価は、21世紀に入って、今後ますます高まるのではないかという気がする。今はまだその実力に見合った評価を下されていないのではないだろうか。

 だが、不思議なことに、この曲を生で聴いて満足した記憶がない。今回もアレクサンダー・ガヴリリュクのピアノ独奏は面白かったが(猛禽類が獲物を狙うような演奏だった)、オーケストラがパッとしなかった。磨きあげが不足していた。

 ガヴリリュクのアンコール演奏があった。ショパンのノクターン変ニ長調作品27‐2。プロコフィエフで火照った気持ちを静めるような曲=演奏だった。音がよくコントロールされていた。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。第1楽章がとくに面白かった。あらゆるドラマ性を排して、一種‘即物的に’演奏された。稀に見る集中力と熱気があった。でも、そのことよりも、この音楽がどう作られているのか――例の冒頭の動機が無限に繰り返され(ほとんど気が遠くなるほど繰り返されて)、積み木のように組み立てられていく――が、まるで目に見えるように感じられることに驚いた。

 ベートーヴェンとプロコフィエフの音楽の違いを思わずにはいられなかった。ベートーヴェンの場合は、音を隙間なく整然と積み上げていく。わずかな揺るぎもない。一方、プロコフィエフの場合は、ムラのある作り方をしている。音の薄い部分を(意図的に)作っている。そこに面白味がある。

 ノセダの指揮法が興味深かった。オーケストラを煽る場合に目立つのだが、下から掬うような動きをする。ノセダを聴くのはこれで2度目だが、前回は気が付かなかった。あのときはカセルラの交響曲第2番を聴いた。曲が面白くて、そこまで気が回らなかった。
(2015.1.11.NHKホール)

↓ノセダの指揮姿
https://www.youtube.com/watch?v=KDslVGf7OTQ
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