都響の「日本管弦楽の名曲とその源流」シリーズ第20回。最終回だ。残念だが、でも、何も言うまい。
今回はハンヌ・リントゥの指揮。以前に一度聴いた記憶がある。印象に残っている。今回はさらに(音楽的な)風格を増していた。
1曲目はシベリウスの交響詩「夜の騎行と日の出」。思い切りのいい演奏だった。前回もそうだったと思い出した。もっとも、前回は、ぎこちなさ、あるいは力みがあった気がする。今回はより自然なスケール感が備わっていた。
シベリウスが交響曲第3番を書いた後の作品だが、その割にはフレーズ感に交響曲第2番のようなロマン派の味わいがあった。それはリントゥの個性かと思った。終演後、プログラムノートをよく読むと、作曲年代は1901~08年と書いてあった。ならば、交響曲第2番と一部重なっているわけだ。1901年は例のイタリア旅行の年だ。この曲と交響曲第2番とは、ほとんど同時に着想されたのだろうか。
2曲目はルトスワフスキのチェロ協奏曲。チェロ独奏はピーター・ウィスペルウェイ。片山杜秀氏のプログラムノートによると、「チェロが作曲者、金管がナチスや(ソ連およびその影響下にあったポーランドの)共産党、木管や弦や打楽器は日和見派。そう考えてよいだろう。」とのこと(カッコ内はわたしの補足)。それら3者が繰り広げるドラマとしてこの曲を説明していた。見事だ。
そういった現実のドラマ――作曲年代は1970年だから、45年前には現実にあった過酷なドラマ――が、今この場で起きているかのように、鮮烈に繰り広げられた。ドラマが‘音楽’という枠を超えて伝わってきた。ルトスワフスキの恐怖や憎悪、卑屈な妥協、その他あらゆるドラマがヴィヴィッドに伝わってきた。面白すぎるくらい面白かった。
アンコールが演奏された。ルトスワフスキのチェロ協奏曲の冒頭音型の、チェロの単音の繰り返しが始まったので、あれっ、もう一度やるの?と思ったら、そのままバッハに移行した。無伴奏チェロ組曲第2番からサラバンド。ユーモアたっぷりだ。
3曲目は一柳慧の新作、交響曲第9番「ディアスポラ」。第4楽章(最終楽章)の後半では壮大な偶然性の音楽が展開された。とはいえ、――本作の動機は戦争経験を語り伝えることにあるそうだが――ルトスワフスキの後で聴くと、鋭さを欠くというか、突き詰め方が甘いように感じられた。
(2015.1.23.サントリーホール)
今回はハンヌ・リントゥの指揮。以前に一度聴いた記憶がある。印象に残っている。今回はさらに(音楽的な)風格を増していた。
1曲目はシベリウスの交響詩「夜の騎行と日の出」。思い切りのいい演奏だった。前回もそうだったと思い出した。もっとも、前回は、ぎこちなさ、あるいは力みがあった気がする。今回はより自然なスケール感が備わっていた。
シベリウスが交響曲第3番を書いた後の作品だが、その割にはフレーズ感に交響曲第2番のようなロマン派の味わいがあった。それはリントゥの個性かと思った。終演後、プログラムノートをよく読むと、作曲年代は1901~08年と書いてあった。ならば、交響曲第2番と一部重なっているわけだ。1901年は例のイタリア旅行の年だ。この曲と交響曲第2番とは、ほとんど同時に着想されたのだろうか。
2曲目はルトスワフスキのチェロ協奏曲。チェロ独奏はピーター・ウィスペルウェイ。片山杜秀氏のプログラムノートによると、「チェロが作曲者、金管がナチスや(ソ連およびその影響下にあったポーランドの)共産党、木管や弦や打楽器は日和見派。そう考えてよいだろう。」とのこと(カッコ内はわたしの補足)。それら3者が繰り広げるドラマとしてこの曲を説明していた。見事だ。
そういった現実のドラマ――作曲年代は1970年だから、45年前には現実にあった過酷なドラマ――が、今この場で起きているかのように、鮮烈に繰り広げられた。ドラマが‘音楽’という枠を超えて伝わってきた。ルトスワフスキの恐怖や憎悪、卑屈な妥協、その他あらゆるドラマがヴィヴィッドに伝わってきた。面白すぎるくらい面白かった。
アンコールが演奏された。ルトスワフスキのチェロ協奏曲の冒頭音型の、チェロの単音の繰り返しが始まったので、あれっ、もう一度やるの?と思ったら、そのままバッハに移行した。無伴奏チェロ組曲第2番からサラバンド。ユーモアたっぷりだ。
3曲目は一柳慧の新作、交響曲第9番「ディアスポラ」。第4楽章(最終楽章)の後半では壮大な偶然性の音楽が展開された。とはいえ、――本作の動機は戦争経験を語り伝えることにあるそうだが――ルトスワフスキの後で聴くと、鋭さを欠くというか、突き詰め方が甘いように感じられた。
(2015.1.23.サントリーホール)