オリヴァー・ナッセンが都響を振るので、注目していた演奏会。わたしはB定期の会員だが、A定期の一回券も買った。昨日はそのA定期があった。
ナッセンが登場する。杖をつきながら、ゆっくりした足取りだ。指揮台には椅子が置かれている。杖を置いて、その椅子にドッコイショと腰かける。足を痛めたというよりも、長年あの巨体を支えてきたので、足か膝が消耗しているように見える。ナッセンはわたしとほぼ同い年だ。それなのにこの姿はと、ちょっと驚いた。
ところが、演奏に入ると、見違えるように鋭い指揮だった。1曲目はミャスコフスキーの交響曲第10番。演奏時間20分ほどの単一楽章の曲。交響曲というよりも交響詩に近い。狂おしい情熱が渦巻く。スクリャービンのようでもあるが、スクリャービンの官能性よりは、もっと直接的な感情が吹き荒れる。
この交響曲がじつに堅固に構築された演奏。結果、方向感を見失うことなく、最後まで一気に聴き通すことができた。ナッセンの指揮者としての力量は並外れたものがある。また都響の演奏力にも瞠目した。コンサートマスターの四方恭子のリーダーシップも与って力があると見受けられた。
2曲目はナッセンのヴァイオリン協奏曲。急―緩―急の3楽章構成。各楽章は続けて演奏される。演奏時間は17分ほど。晦渋ではなく、また平明さを狙ったわけでもなく、ナッセンの音楽性がてらいなく率直に表れた曲だ。
緩徐楽章の第2楽章で独奏ヴァイオリンが弾き進む旋律には、凛とした気配が漂っていた。なにか胸を打つものがあった。後で解説をよく読むと、9.11の直後に作曲されたことが分かった。そうだったのか、と思った。
ヴァイオリン独奏はリーラ・ジョセフォウィッツ。さすがに名手だ。アグレッシヴに弾き切った。アンコールが演奏された。激しく動き回る曲だ。現代曲だが、これも難解ではなく、ヴァイオリンを弾く(聴く)面白さを備えている。休憩時にロビーの掲示を見たら、エサ=ペッカ・サロネンの「学ばざる笑い」(2002年)とあった。
休憩後は「展覧会の絵」。ただし、ラヴェル編曲ではなく、ストコフスキー編曲。ラヴェル編曲を前提にしてそのアンチテーゼを狙ったような編曲だ。あちこちで意表を突かれる。演奏も(いい意味で)じつにエグイ。これだけやってくれると、面白さも倍増する。ナッセンのオーケストラ・コントロールにも感嘆。
(2015.9.24.東京文化会館)
ナッセンが登場する。杖をつきながら、ゆっくりした足取りだ。指揮台には椅子が置かれている。杖を置いて、その椅子にドッコイショと腰かける。足を痛めたというよりも、長年あの巨体を支えてきたので、足か膝が消耗しているように見える。ナッセンはわたしとほぼ同い年だ。それなのにこの姿はと、ちょっと驚いた。
ところが、演奏に入ると、見違えるように鋭い指揮だった。1曲目はミャスコフスキーの交響曲第10番。演奏時間20分ほどの単一楽章の曲。交響曲というよりも交響詩に近い。狂おしい情熱が渦巻く。スクリャービンのようでもあるが、スクリャービンの官能性よりは、もっと直接的な感情が吹き荒れる。
この交響曲がじつに堅固に構築された演奏。結果、方向感を見失うことなく、最後まで一気に聴き通すことができた。ナッセンの指揮者としての力量は並外れたものがある。また都響の演奏力にも瞠目した。コンサートマスターの四方恭子のリーダーシップも与って力があると見受けられた。
2曲目はナッセンのヴァイオリン協奏曲。急―緩―急の3楽章構成。各楽章は続けて演奏される。演奏時間は17分ほど。晦渋ではなく、また平明さを狙ったわけでもなく、ナッセンの音楽性がてらいなく率直に表れた曲だ。
緩徐楽章の第2楽章で独奏ヴァイオリンが弾き進む旋律には、凛とした気配が漂っていた。なにか胸を打つものがあった。後で解説をよく読むと、9.11の直後に作曲されたことが分かった。そうだったのか、と思った。
ヴァイオリン独奏はリーラ・ジョセフォウィッツ。さすがに名手だ。アグレッシヴに弾き切った。アンコールが演奏された。激しく動き回る曲だ。現代曲だが、これも難解ではなく、ヴァイオリンを弾く(聴く)面白さを備えている。休憩時にロビーの掲示を見たら、エサ=ペッカ・サロネンの「学ばざる笑い」(2002年)とあった。
休憩後は「展覧会の絵」。ただし、ラヴェル編曲ではなく、ストコフスキー編曲。ラヴェル編曲を前提にしてそのアンチテーゼを狙ったような編曲だ。あちこちで意表を突かれる。演奏も(いい意味で)じつにエグイ。これだけやってくれると、面白さも倍増する。ナッセンのオーケストラ・コントロールにも感嘆。
(2015.9.24.東京文化会館)