N響のA定期を振ったディエゴ・マテウスという指揮者は、わたしには初めての指揮者だ。1984年、ベネズエラ生まれ。今年31歳の若手だ。今をときめくドゥダメル(1981‐)を生んだエル・システマの出身。現在ヴェネチア・フェニーチェ歌劇場の首席指揮者を務めている。日本でもすでにサイトウ・キネン・オーケストラとN響を振っているので、ご存じの方も多いだろう。
プログラムも興味深い。1曲目はマーラーの交響曲第5番からアダージェット。2曲目の「リュッケルトによる5つの歌」の伏線だ。細い1本の線を描くように旋律を描く。まるで甘く陶酔することを避けるような演奏だ。オーケストラがルーティンに流れることを抑えているようでもある。
この演奏がどうかよりも、交響曲からこの楽章を取り出して単独で演奏するとき、聴く方はそれをどう聴いたらよいか、そんなぎこちなさを感じた。前後の流れから切り離された楽章は、すわりの悪いものだと思った。
2曲目は「リュッケルトによる5つの歌」。ステージを見てあらためて気付いたが、この曲のオーケストラ編成は2管編成を基本としたフル編成だ。でも、そういう視覚情報と耳から入ってくる音とが一致しない。音は薄い。極限的に薄い。これほど堂々としたオーケストラを使っておきながら、よくこんなに薄い音を書けたものだと思う。
ソプラノ独唱はケイト・ロイヤル。イギリス出身の若手だ。細かなビブラートがわたしには気になった。声も細くて、巨大なホールを満たすには力不足だった。
上記2曲の組み合わせは、音楽的なつながりがあるので、納得できるのだが、マテウスの指揮には硬さが否めなかった。
ところが休憩後のチャイコフスキーの交響曲第5番になったら、熱い血が通う演奏になった。一瞬たりとも弛緩することがなく、雄弁なドラマが展開した。N響のアンサンブルも見事なものだ。マテウスの情熱的な音楽を受け入れる包容力がある。惜しむらくは第4楽章になって緩みが感じられたが、でも、まあ、これも生だから仕方がない。
N響は長老指揮者が振ることが多いが(それをまたN響の聴衆も支持しているのだろうが)、マテウスのような若い指揮者が振ると、張りのある明るい音が出る。今回はゲスト・コンサートマスターにベルンハルト・ハルトークが入っていたので、その影響も大きかったにちがいない。
(2015.11.15.NHKホール)
プログラムも興味深い。1曲目はマーラーの交響曲第5番からアダージェット。2曲目の「リュッケルトによる5つの歌」の伏線だ。細い1本の線を描くように旋律を描く。まるで甘く陶酔することを避けるような演奏だ。オーケストラがルーティンに流れることを抑えているようでもある。
この演奏がどうかよりも、交響曲からこの楽章を取り出して単独で演奏するとき、聴く方はそれをどう聴いたらよいか、そんなぎこちなさを感じた。前後の流れから切り離された楽章は、すわりの悪いものだと思った。
2曲目は「リュッケルトによる5つの歌」。ステージを見てあらためて気付いたが、この曲のオーケストラ編成は2管編成を基本としたフル編成だ。でも、そういう視覚情報と耳から入ってくる音とが一致しない。音は薄い。極限的に薄い。これほど堂々としたオーケストラを使っておきながら、よくこんなに薄い音を書けたものだと思う。
ソプラノ独唱はケイト・ロイヤル。イギリス出身の若手だ。細かなビブラートがわたしには気になった。声も細くて、巨大なホールを満たすには力不足だった。
上記2曲の組み合わせは、音楽的なつながりがあるので、納得できるのだが、マテウスの指揮には硬さが否めなかった。
ところが休憩後のチャイコフスキーの交響曲第5番になったら、熱い血が通う演奏になった。一瞬たりとも弛緩することがなく、雄弁なドラマが展開した。N響のアンサンブルも見事なものだ。マテウスの情熱的な音楽を受け入れる包容力がある。惜しむらくは第4楽章になって緩みが感じられたが、でも、まあ、これも生だから仕方がない。
N響は長老指揮者が振ることが多いが(それをまたN響の聴衆も支持しているのだろうが)、マテウスのような若い指揮者が振ると、張りのある明るい音が出る。今回はゲスト・コンサートマスターにベルンハルト・ハルトークが入っていたので、その影響も大きかったにちがいない。
(2015.11.15.NHKホール)