Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

桜の園

2015年11月21日 | 演劇
 新国立劇場で公演中のチェーホフの「桜の園」を観た。ロシア革命前夜のロシア。多額の負債を抱えて領地を競売にかけられる領主ラネーフスカヤに田中裕子。父も祖父もその領地の小作人だったが、時代の流れに乗って事業家として成功し、資産を蓄えたロパーヒンに柄本佑というキャスト。

 田中裕子は20代の頃と変わらない若さだ。容姿もそうだが、感性が老けていない。華やぎのあるラネーフスカヤ。桜の園の‘桜’の象徴のようだ。一方、柄本佑はそんな田中裕子に遠慮がちのように感じられた。元小作人の息子ではあるが、子どもの頃にラネーフスカヤに思慕の念を抱き、今でも慕っているロパーヒン。でも、時代が変わり、今では立場が逆転した。もっと颯爽としていてもよかった。

 いうまでもなく「桜の園」はこの二人を軸に進むわけではなく、登場人物のすべてに人生があり、等しく重みがあるわけだが、一々その名前は挙げないまでも、どの役者も各々の人生を体現していた。

 だが、全体として、観終わった後に「桜の園」に触れたという実感があまり湧かなかった。なぜだろう。なにが不満だったのだろう。

 総体的にいうと、演出に一種の‘緩さ’を感じた。鵜山仁の演出には時々それを感じることがあるのだが、今回も感じた。シェイクスピアの「ヘンリー六世」三部作のような叙事的な作品ならばよいが、「桜の園」のように、一見散漫ではあるが、じつは凝縮した作品の場合には具合が悪い。観劇後に一編の詩、あるいは一幅の絵のようなイメージが残らなかった。

 もう少し具体的にいうと、「桜の園」は‘喜劇’なわけだが、喜劇にこだわるあまり、喜劇が日常的なレベルに止まり、もっと高度な次元へと上昇することができなかった。端的にいって、透明感が生まれなかった。

 個別の場面では、幕切れでプロセニアム・アーチ(舞台前面の額縁)が崩壊する演出には興ざめだった。ラネーフスカヤの屋敷の崩壊を意味するわけだが、そこまでやってくれなくても、という感じがした。同様に、最後に一人残った老僕フィールズの絶命も、片手を挙げて、いかにも絶命という演出にがっかりした。

 そうはいっても、さすがにチェーホフだ。現実を見ようともしない、不完全で愚かな(わたしたちはみんなそうだ)登場人物たちへの眼差しが暖かい。そんなチェーホフの眼差しはこの公演からも感じられた。
(2015.11.20.新国立劇場小劇場)
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