Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インバル/都響

2016年03月30日 | 音楽
 インバルは、2008年から2014年までのプリンシパル・コンダクター時代はマーラーとブルックナーで押していたが、今回の来日ではバーンスタインとショスタコーヴィチ(それも意味深長の交響曲第15番)を取り上げている。一種の自由さというか、ほんとうにやりたい曲をやっているような感じがする。

 1曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第27番。弦の編成は10‐8‐6‐4‐2。穏やかな演奏。けっして声を荒げず、一定のテンポで淡々と進む。リズムは重くならず、かといってピリオド奏法的な尖ったところもなく、丸みを帯びたリズムが一貫している。なにも起こらない演奏。この曲になにか起きることを期待しているの?と、わたしは自らに問いかけたい気分だった。

 ピアノ独奏の白建宇(クンウー・パイク)の演奏も同様。だが、少し疲れたような――人生の疲れがたまったような――、沈みがちな気分が感じられた。

 モーツァルトの死の年に完成した曲だが、完成日付の1791年1月5日にはモーツァルトはまだ健康を害していなかった。しかも、近年の研究では、第1楽章は1788年12月から翌年2月までの間に書き始められたという。であれば、この曲は、もう少し生気のある演奏であってもいいのではないだろうか。生気があってこそ、この曲の透明な諦念が感じられるのではないかと思った。

 アンコールが演奏された。まったく知らない曲だが、途中でグリーン・スリーヴズの旋律が出てきた。だれの曲だろう。帰り際にロビーを見回したが、曲名の掲示は見つからなかった。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第15番。先週のバーンスタインの交響曲第3番「カディッシュ」と同様、神経の張りつめた音。けっして重くはなく、むしろ繊細だ。しかもピリピリせず、伸びやかなところがある。モーツァルトの演奏にはなかった生気が蘇ってきたような感じがした。

 この曲の演奏では、2013年11月30日に聴いたデュトワ/N響が忘れられない。全曲がパロディーで構成されているような不思議な感覚を持つ演奏だった。それに対して今回の演奏は、もっと生身の人間の声が聴こえた。なにかの究極の地点まで行った人間の声。

 本年7月にはラザレフ/日本フィルがこの曲を演奏する。第4番や第9番が名演だったので、第15番も期待できると思う。わたしの音楽体験もこうやって豊かになっていく……。
(2016.3.29.東京文化会館)
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