Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

大野和士/都響

2016年03月06日 | 音楽
 大野和士指揮都響の日本人作曲家の作品の演奏会。1曲目は武満徹の「ウィンター」(1971年)。この曲を実演で聴くのは初めてかもしれない。チャンス・オペレーション(偶然性)の書法がこんなに取り入れられていたのかと初めて気付いた次第。

 武満徹の作曲活動を前半の「前衛の時代」と後半の「武満トーンの時代」に分けるとすれば、本作は「前衛の時代」の終盤に属する。1972年の札幌オリンピックのための機会音楽だが、機会音楽といって済ませるべき音楽ではなく、作曲活動の軌跡にしっかり根を下ろした作品だ。

 大野和士指揮の都響の演奏は美しい音色だった。静謐な時間が過ぎていった。静謐さを乱すなにものもなかった。前述の分類でいえば、「武満トーンの時代」から振りかえったこの曲の解釈だったといえるかもしれない。

 2曲目は柴田南雄の「遊楽no.54」(1977年)。都響の第100回定期演奏会のために書かれた曲だそうだ。曲の途中でピッコロ2人が祭囃子のような音型を吹く。すると他のパートも即興的な音型を奏し始める。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの各奏者は立ちあがり、自由に歩き回りながら、自由な音型を弾く。舞台はカオスのような状態になる。

 これまた大雑把な分類だが、柴田南雄の作曲活動を「前衛の時代」と晩年の「民族音楽的シアターピースの時代」に分けるとするなら、本作は「民族音楽的シアターピースの時代」に属する。理論家肌の柴田南雄がなぜ‘民族音楽的’シアターピースに傾斜したのか、興味深いところだ。

 大野和士指揮の都響はそのパフォーマンスを楽しんでいるように見えた。わたしたち聴衆も楽しんだ。祭囃子の楽しさ。日本人のDNAに深く刻み込まれた民族性。もしかすると柴田南雄はそこまで見極めていたのかもしれない。

 3曲目は池辺晋一郎の「交響曲第9番」。2013年9月の初演(下野竜也指揮東京交響楽団、幸田浩子と宮本益光の独唱)は聴きそこなったので、今回が初めて。独唱2人は初演時と同じ。

 長田弘の詩をテクストに用いている。だれにでも分かる平易な詩。しかもその詩は深い余韻を残す。そのような詩がこの音楽の性格を決定づけている。透明感のある薄いオーケストレーション。親しみやすい音楽。第9楽章(最終楽章)でホルンが語る「幸福とは何だと思うか?」という音型は、池辺晋一郎版「答えのない質問」だろうか。
(2016.3.5.東京芸術劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする