Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ひとりの記憶

2016年05月09日 | 身辺雑記
 新聞の書評で橋口譲二の「ひとりの記憶」が紹介されていた。第二次世界大戦の終結後も日本に帰らず外地に留まった日本人たちを訪ね歩き、その話を記録したもの。興味を惹かれて読んでみた。

 登場する人物は10人。居住地はインドネシア2人、台湾2人、韓国1人、中国1人、サイパン1人、ポナペ(ミクロネシアの島)1人、ロシア1人、キューバ1人。性別では男性6人、女性4人。皆さんそれぞれ事情があって現地に留まった。1人か2人、その人生を紹介したほうがよいのかもしれないが、今は一人ひとりのかけがえのない人生に打たれて、そのうちのだれかを選ぶ気になれない。

 概ね皆さん、自分の意志というよりも、生きるためには選択の余地などなく、目の前の生を生き延びてきたという面が強いようだ。過酷な人生には違いない。でも、皆さん、少なくとも表面的には淡々とその人生を語っている。内面的にはどうかは分からないが。一瞬、寂しさとか孤独、あるいは悔いのようなものが顔を覗かせることがあるが、でも、すぐ元に戻る。

 わたしは戦後生まれで、高度経済成長期に育った。あの頃、海の向こうにはこれらの人々が、日本の繁栄とはまったく無関係に生きていることに、想いを馳せることはなかった。愚かなものだ。今にしてやっと、中国残留孤児や、未帰還兵や、その他の戦争の影というか、戦争が今の時代にもつながっている事実を知ることになった。

 本書の取材は1995年頃に行われた。それから約20年たつ。地下水が湧き水となって地表に現れるように、今、本書が著された。約20年という歳月によって蒸留された記録には、一点の曇りもない。清流のように澄みきっている。実感としては、静けさがある。

 どの人の場合もそうだが、最初のうちは、話のとっかかりを求めて、手探りの状態が続くが、次第にその人の人生や人間性がくっきりした輪郭をもって浮かび上がってくる。その過程が生き生きとしている。

 橋口氏は1949年生まれの写真家。なので、上記の10人の写真がついている。どれも印象深い。それぞれの人生が、動かし難い事実として、わたしの心の中に残る。

 巻末には上記10人以外の人々の写真もついている(取材した人は86人にのぼるそうだ)。本文に登場する人もいるが、登場しない人もいる。本文には登場せずに写真だけの人にも、それぞれの人生があったはずだが、それはどんな人生だったのだろうと想像した。(注)


(注)写真だけの人の中に藤田松吉氏がいた。未帰還兵を扱ったドキュメンタリー映画「無法松故郷へ帰る」や「花と兵隊」に登場した人物。わたしは「花と兵隊」を観たが、その強烈な個性に圧倒された。橋口氏の取材対象にはこの人も入っていた。
コメント
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