キリル・カラビッツという新進指揮者が振った読響の定期は、全席完売。皆さんのお目当てはハチャトゥリアンのフルート協奏曲で独奏を務めるエマニュエル・パユだったようだ。
演奏順は2曲目だったが、まずはその感想から。オーケストラの激しい導入の後、パユがせわしなく動き回るテーマを吹く。ノイズが混じり、ブレスも大きい。激しいという形容詞を通り越して、野性的といいたいくらいだ。そのテーマが回帰する都度、この吹き方だったので、意図したものだったと思う。
ものすごく高いテンションで演奏された。フルート一本でオーケストラ全体を引っ張っていく観があった。激しい意気込みで先へ先へと進んでいく。1拍、2拍といった拍節感がまだるっこいのではないかと思われるほどの演奏だ。
一方、オーケストラもたんなる伴奏に終わってはいなかった。激しさにおいては負けていない。しっかりパユに絡んでいた。パユに煽られて、読響はもちろん、指揮者カラビッツにも火が付き、三者一体となってまれに見る本気の演奏となった。
ハチャトゥリアン特有の民族的な音調のこの曲が、たんに民族的というだけでなく、もっと根源的な生命力というか、人間本来の野生というか、そんなレベルまでいった演奏だ。
終演後は大いに盛り上がった。指揮者そっちのけで、クラリネット奏者など、各パートを立たせようとするパユ。戸惑う奏者。パユが指揮者に言って(指示して)立たせる。指揮者との格の違いが見える。
アンコールが演奏された。武満徹の遺作の一つとされる「エア」。武満徹が求めた究極の旋律かもしれないこの曲を、パユで聴ける。わたしは思わず身構えた。パユの音が虚空を舞う。今まで聴いたこの曲の演奏とは次元が違う。音のあらゆるニュアンスが表現されているのではないかと思った。音楽が構築する空間が巨大だ。この演奏を聴けただけでも行った甲斐があるというものだ。
休憩後にプロコフィエフの交響曲第5番が演奏された。プロコフィエフを得意としている指揮者というだけあって、よい演奏だったと思うが、ハチャトゥリアンの余韻さめやらぬわたしには、純音楽的な収まりがよいため、少々物足りなくもあった。
最後になったが、1曲目にプロコフィエフ19歳のときの作品、交響的絵画「夢」という珍しい曲が演奏された。茫漠とした叙情性のある曲だった。
(2016.5.24.サントリーホール)
演奏順は2曲目だったが、まずはその感想から。オーケストラの激しい導入の後、パユがせわしなく動き回るテーマを吹く。ノイズが混じり、ブレスも大きい。激しいという形容詞を通り越して、野性的といいたいくらいだ。そのテーマが回帰する都度、この吹き方だったので、意図したものだったと思う。
ものすごく高いテンションで演奏された。フルート一本でオーケストラ全体を引っ張っていく観があった。激しい意気込みで先へ先へと進んでいく。1拍、2拍といった拍節感がまだるっこいのではないかと思われるほどの演奏だ。
一方、オーケストラもたんなる伴奏に終わってはいなかった。激しさにおいては負けていない。しっかりパユに絡んでいた。パユに煽られて、読響はもちろん、指揮者カラビッツにも火が付き、三者一体となってまれに見る本気の演奏となった。
ハチャトゥリアン特有の民族的な音調のこの曲が、たんに民族的というだけでなく、もっと根源的な生命力というか、人間本来の野生というか、そんなレベルまでいった演奏だ。
終演後は大いに盛り上がった。指揮者そっちのけで、クラリネット奏者など、各パートを立たせようとするパユ。戸惑う奏者。パユが指揮者に言って(指示して)立たせる。指揮者との格の違いが見える。
アンコールが演奏された。武満徹の遺作の一つとされる「エア」。武満徹が求めた究極の旋律かもしれないこの曲を、パユで聴ける。わたしは思わず身構えた。パユの音が虚空を舞う。今まで聴いたこの曲の演奏とは次元が違う。音のあらゆるニュアンスが表現されているのではないかと思った。音楽が構築する空間が巨大だ。この演奏を聴けただけでも行った甲斐があるというものだ。
休憩後にプロコフィエフの交響曲第5番が演奏された。プロコフィエフを得意としている指揮者というだけあって、よい演奏だったと思うが、ハチャトゥリアンの余韻さめやらぬわたしには、純音楽的な収まりがよいため、少々物足りなくもあった。
最後になったが、1曲目にプロコフィエフ19歳のときの作品、交響的絵画「夢」という珍しい曲が演奏された。茫漠とした叙情性のある曲だった。
(2016.5.24.サントリーホール)