Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

近藤譲 七十歳の径路

2017年11月02日 | 音楽
 長年、わたしの主なフィールドは在京オーケストラだったので、近藤譲の音楽を聴く機会は、今まであまりなかった。自ら求めて現代音楽の演奏会に行けば、いくらでも聴けたとは思うが、少なくとも仕事が現役だった頃は、その時間も気力もなかった。

 だが、近藤譲の音楽は気になっていた。初めてその音楽に触れたのは、わたしが20代前半の頃。時流から距離を置き、時流にたいして批評を加えるような、シンプルで風変わりな音楽は、強烈な印象となってわたしの中に残った。また音楽誌に掲載された文章からも強い印象を受け、著書を1冊買ったりした。

 今回のコンサートはその音楽との、40年あまりの年月を隔てた再会だった。

 演奏された曲目は、1975年の「視覚リズム法」から2015年の「変奏曲(三脚巴)」(日本初演)までの計8曲の室内楽。1980年代の作品がなかったが、それは単なる偶然か。

 面白かったのは「視覚リズム法」。ピアノ独奏版もあるが、今回はオリジナルの室内アンサンブル版での演奏。チューバ、バンジョー、スチールドラム、電気ピアノそしてヴァイオリンという編成。明るく透明、どこか浮世離れした音がする。ユーモラスでもあり、また叙情もある。乾いた叙情というか、もし叙情という言葉が強すぎるなら、感性といってもよいが、乾いた感性が漂う。

 演奏曲目の一つに「空の空」(くうのくう)(2009)があった。近藤譲が執筆したそのプログラムノートには、次のようなくだりがあった。

 「実のところ、この曲に限らず私の作品は全て、目的をもっていない。つまりそれらは、作曲や演奏の技術練習のためではないし、自己表現のためでもなく、感情表現のためでもなく、物語を語るためでもなく、抽象的な音構成体としての形式の実現のためでもなく、又それ以外の何かの目的のためでもなく、更に言えば、無目的ということが目的になっているわけでもない。」。

 そして、最後にこういう。「その意味では、この作品は(私の他の作品と同様に)、結果として、私自身にとっての、そして同時にそれに耳を傾ける全ての聴き手にとっての、「聴くこと」のエチュードだと言ってよいのかもしれない。」。

 近藤譲の音楽を語る言葉として、「聴くこと」のエチュードというこの言葉は、感動的なほど分かりやすいと思った。
(2017.10.31.東京オペラシティ・リサイタルホール)
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