有島武郎(1878‐1923)の小説「生れ出づる悩み」は、今年で出版100年を迎える。作者自身である「私」が、漁師で画家志望の青年と出会い、その内面の葛藤を想う小説。青年は「私」の分身であり、内面の葛藤には「私」の悩みが重ねられていることは明らか。その悩みの純粋さが今でも読者を惹きつける。
青年との出会いは実際の出来事だった。青年の名前は木田金次郎(1893‐1962)。その回顧展が「生れ出づる悩み」出版100年を記念して開催されている。
チラシ(↑)の説明をすると、左のワイシャツ姿の男が有島武郎、右の和服姿の男が木田金次郎。1922年に有島が岩内(いわない)に住む木田を訪ねたときの写真。有島は翌年、ある女性と心中する。その前年だと思うと胸が詰まる。
有島の心中は木田を驚愕させた。その事件がきっかけとなって、木田は漁師をやめ、画業に専念する。
1954年に大事件が起きた。「洞爺丸台風」が岩内を襲い、そのさなかに出火した「岩内大火」で町内の家の8割が焼けた。木田の家も例外ではなかった。木田が描いた1500~1600点の油彩・デッサンも焼失した。そのとき朝日新聞社の論説主幹・笠信太郎(1900‐1967)から「スグセイサクニトリカカレ」と電報が来た。気を取り直した木田は「大火直後の岩内港」(1954)を描いた。
それ以降の作風は、ガラッと変わった。それまでの、どっしりとして、穏やかで、試行錯誤も見られる作品から、激しい無数の線(木田は「色線」と呼んでいる)が縦横に飛び交い、奔放な、迷いのない作品になった。その作風が究められ、一気に1962年の逝去まで駆け込んだように見える。
木田の生涯を辿ると、ざっと以上のようになる。冗長な記述になったかもしれないが、わたしの非力な筆で(キーボードで)書きたかったのは、「岩内大火」によって作品のすべてを失った木田が、文字通り過去を捨てて、自分の作風を見出し、それを究める迫力に、わたしは圧倒されたということだ。
本展の最後のコーナー(「岩内大火」以降の作品群)には、凄まじいエネルギーが渦巻いている。嵐の中に巻き込まれたようだ。その中の一つ「岩内山」(1958)は、山のマッスとしての量感と、清新な気韻とを捉えた作品で、有島武郎が「生れ出づる悩み」の終盤で描写したスケッチの、40年後の結実のように感じられた。
(2018.8.15.府中市美術館)
(※)本展のHP
青年との出会いは実際の出来事だった。青年の名前は木田金次郎(1893‐1962)。その回顧展が「生れ出づる悩み」出版100年を記念して開催されている。
チラシ(↑)の説明をすると、左のワイシャツ姿の男が有島武郎、右の和服姿の男が木田金次郎。1922年に有島が岩内(いわない)に住む木田を訪ねたときの写真。有島は翌年、ある女性と心中する。その前年だと思うと胸が詰まる。
有島の心中は木田を驚愕させた。その事件がきっかけとなって、木田は漁師をやめ、画業に専念する。
1954年に大事件が起きた。「洞爺丸台風」が岩内を襲い、そのさなかに出火した「岩内大火」で町内の家の8割が焼けた。木田の家も例外ではなかった。木田が描いた1500~1600点の油彩・デッサンも焼失した。そのとき朝日新聞社の論説主幹・笠信太郎(1900‐1967)から「スグセイサクニトリカカレ」と電報が来た。気を取り直した木田は「大火直後の岩内港」(1954)を描いた。
それ以降の作風は、ガラッと変わった。それまでの、どっしりとして、穏やかで、試行錯誤も見られる作品から、激しい無数の線(木田は「色線」と呼んでいる)が縦横に飛び交い、奔放な、迷いのない作品になった。その作風が究められ、一気に1962年の逝去まで駆け込んだように見える。
木田の生涯を辿ると、ざっと以上のようになる。冗長な記述になったかもしれないが、わたしの非力な筆で(キーボードで)書きたかったのは、「岩内大火」によって作品のすべてを失った木田が、文字通り過去を捨てて、自分の作風を見出し、それを究める迫力に、わたしは圧倒されたということだ。
本展の最後のコーナー(「岩内大火」以降の作品群)には、凄まじいエネルギーが渦巻いている。嵐の中に巻き込まれたようだ。その中の一つ「岩内山」(1958)は、山のマッスとしての量感と、清新な気韻とを捉えた作品で、有島武郎が「生れ出づる悩み」の終盤で描写したスケッチの、40年後の結実のように感じられた。
(2018.8.15.府中市美術館)
(※)本展のHP