フェスタサマーミューザでミンコフスキ指揮都響の「くるみ割り人形」全曲。第1幕の演奏は緩めだったが、第2幕になると締まって、ミンコフスキの個性全開だった。
「コーヒー(アラビアの踊り)」が、終始弱音で、抑えた表現だったのが印象的。官能性というよりも、仄暗い演奏だった。また「花のワルツ」が、レガートをかけずに、音を短く切って、しかも相当なスピードで演奏されたことは、わたしを含めて、多くの方々の注目を集めたようだ。従来の甘く華やかな演奏スタイルではなく、音の動きのおもしろさを感じさせる演奏だった。
だが、独自の解釈というと、上記の2曲くらいではなかったろうか。全般的にはあまり変わった点はなかったと思う。それでも演奏全体からは、ミンコフスキらしさが滲み出ていた。それはなんだろう。生きいきとしたリズムか。それもあるが、もっと根本的には、ミンコフスキのドラマトゥルギーではないだろうか。
ミンコフスキが見出すドラマ、より具体的にいえば、ミンコフスキが音楽にどのような作劇術を見出すか、その個性的な視点と演奏への反映、そういう側面がミンコフスキの演奏には感じられる。今回の「くるみ割り人形」と過去にミンコフスキが都響で演奏した2曲のブルックナーの交響曲には、同質のドラマトゥルギーが感じられる、というのがわたしの実感だ。
「くるみ割り人形」という選曲には意外な感もあったが、ミンコフスキは「2016年には手兵「ルーヴル」とこの「くるみ割り」でヨーロッパをツアーし、センセーションを巻き起こしている。」(宮本明氏のプログラムノーツ)。
思えば、わたしの初めてのミンコフスキ体験は、パリで観たオッフェンバックのオペレッタ「美しきエレーヌ」だった(抱腹絶倒の公演で、観客に大うけだった)。バロックはいうに及ばず、オッフェンバックも「くるみ割り人形」もブルックナーも、ミンコフスキはいつも自分の好きな曲を演奏してきたのだろう。その時々の作品への「愛」が演奏の真正さを裏打ちしている。
余談ながら、「くるみ割り人形」とオペラ「イオランタ」は同時期の作品だが、わたしはそれらの作品にチャイコフスキーの感性のもっとも繊細な部分を感じる。またメルヘンという意味でモーツァルトの「魔笛」を連想する。それらの3作にはどことなく生命の衰えが感じられるが、ミンコフスキの演奏では、それを感じなかった。
(2018.8.5.ミューザ川崎)
「コーヒー(アラビアの踊り)」が、終始弱音で、抑えた表現だったのが印象的。官能性というよりも、仄暗い演奏だった。また「花のワルツ」が、レガートをかけずに、音を短く切って、しかも相当なスピードで演奏されたことは、わたしを含めて、多くの方々の注目を集めたようだ。従来の甘く華やかな演奏スタイルではなく、音の動きのおもしろさを感じさせる演奏だった。
だが、独自の解釈というと、上記の2曲くらいではなかったろうか。全般的にはあまり変わった点はなかったと思う。それでも演奏全体からは、ミンコフスキらしさが滲み出ていた。それはなんだろう。生きいきとしたリズムか。それもあるが、もっと根本的には、ミンコフスキのドラマトゥルギーではないだろうか。
ミンコフスキが見出すドラマ、より具体的にいえば、ミンコフスキが音楽にどのような作劇術を見出すか、その個性的な視点と演奏への反映、そういう側面がミンコフスキの演奏には感じられる。今回の「くるみ割り人形」と過去にミンコフスキが都響で演奏した2曲のブルックナーの交響曲には、同質のドラマトゥルギーが感じられる、というのがわたしの実感だ。
「くるみ割り人形」という選曲には意外な感もあったが、ミンコフスキは「2016年には手兵「ルーヴル」とこの「くるみ割り」でヨーロッパをツアーし、センセーションを巻き起こしている。」(宮本明氏のプログラムノーツ)。
思えば、わたしの初めてのミンコフスキ体験は、パリで観たオッフェンバックのオペレッタ「美しきエレーヌ」だった(抱腹絶倒の公演で、観客に大うけだった)。バロックはいうに及ばず、オッフェンバックも「くるみ割り人形」もブルックナーも、ミンコフスキはいつも自分の好きな曲を演奏してきたのだろう。その時々の作品への「愛」が演奏の真正さを裏打ちしている。
余談ながら、「くるみ割り人形」とオペラ「イオランタ」は同時期の作品だが、わたしはそれらの作品にチャイコフスキーの感性のもっとも繊細な部分を感じる。またメルヘンという意味でモーツァルトの「魔笛」を連想する。それらの3作にはどことなく生命の衰えが感じられるが、ミンコフスキの演奏では、それを感じなかった。
(2018.8.5.ミューザ川崎)