読響の定期演奏会。指揮は上岡敏之。曲目はショパンのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏はポゴレリッチ)とショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。
ホールに入ると、ステージの照明を暗くして、だれかがピアノを弾いている。単純な和音が延々と続く。その人はカラフルなセーターか何かを羽織ってマスクをかけている。顔は分からない。だがポゴレリッチだろう。どこか儀式めいている。やがて女性が近づき、何かをささやく。その人は弾くのをやめて、ステージの袖に引っ込んだ。
その約15分後に開演。ポゴレリッチが登場してショパンのピアノ協奏曲第2番が始まる。テンポは遅めだが、想定内の遅さだ。ポゴレリッチのピアノ独奏は、譜面の細部を味わい尽くすようであり、また変なところにアクセントがついていたりするが、でも過去のポゴレリッチにくらべると、ずいぶんあっさりしてきた。
オーケストラだけの演奏になると、ポゴレリッチのピアノ独奏部分の遅さを本来のテンポに戻すように、速めのテンポで(=普通のテンポで)進む。そのコントラストが全体の造形をなんとか支えた。
ポゴレリッチのアンコールがあった。なんと今演奏したばかりのショパンのピアノ協奏曲第2番の第2楽章をもう一度演奏した(もちろんオーケストラも入った)。2度目になると、ポゴレリッチの手の内も分かって、落ち着いて味わえた。
2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。今まで聴いたどの演奏とも違う演奏だ。スコアを克明に追うとか、情景が目に見えるように描くとか、そんなレベルをこえて、スコアに没入し、スコアに書かれた出来事を生きるような演奏だ。一瞬一瞬が今であり、そこで傷つき、怯え、それでも立ち向かう。言い換えれば、演奏するというよりも、ショスタコーヴィチがスコアに書いた出来事を経験するような演奏だ。
わたしは疲れた。正直言って、もう一度聴きたいかと問われれば、もう十分と答えるかもしれない。実のところ、演奏を聴きながら、かつてスクロヴァチェフスキが読響を振った演奏を思い出した(2009年のことだ)。悲惨な出来事を迫真的に描きながらも、拍節感が保たれ、音楽的な法を越えなかった。
それにしても、全編にわたって革命歌と労働歌がちりばめられたこの曲を、当時のソ連の人々はどう聴いたのだろう。その想像は難しい。上岡敏之の指揮は激しく没入的なものだったが、その指揮はこの曲の含意と絡み合っていたのだろうか。
(2025.1.21.サントリーホール)
ホールに入ると、ステージの照明を暗くして、だれかがピアノを弾いている。単純な和音が延々と続く。その人はカラフルなセーターか何かを羽織ってマスクをかけている。顔は分からない。だがポゴレリッチだろう。どこか儀式めいている。やがて女性が近づき、何かをささやく。その人は弾くのをやめて、ステージの袖に引っ込んだ。
その約15分後に開演。ポゴレリッチが登場してショパンのピアノ協奏曲第2番が始まる。テンポは遅めだが、想定内の遅さだ。ポゴレリッチのピアノ独奏は、譜面の細部を味わい尽くすようであり、また変なところにアクセントがついていたりするが、でも過去のポゴレリッチにくらべると、ずいぶんあっさりしてきた。
オーケストラだけの演奏になると、ポゴレリッチのピアノ独奏部分の遅さを本来のテンポに戻すように、速めのテンポで(=普通のテンポで)進む。そのコントラストが全体の造形をなんとか支えた。
ポゴレリッチのアンコールがあった。なんと今演奏したばかりのショパンのピアノ協奏曲第2番の第2楽章をもう一度演奏した(もちろんオーケストラも入った)。2度目になると、ポゴレリッチの手の内も分かって、落ち着いて味わえた。
2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。今まで聴いたどの演奏とも違う演奏だ。スコアを克明に追うとか、情景が目に見えるように描くとか、そんなレベルをこえて、スコアに没入し、スコアに書かれた出来事を生きるような演奏だ。一瞬一瞬が今であり、そこで傷つき、怯え、それでも立ち向かう。言い換えれば、演奏するというよりも、ショスタコーヴィチがスコアに書いた出来事を経験するような演奏だ。
わたしは疲れた。正直言って、もう一度聴きたいかと問われれば、もう十分と答えるかもしれない。実のところ、演奏を聴きながら、かつてスクロヴァチェフスキが読響を振った演奏を思い出した(2009年のことだ)。悲惨な出来事を迫真的に描きながらも、拍節感が保たれ、音楽的な法を越えなかった。
それにしても、全編にわたって革命歌と労働歌がちりばめられたこの曲を、当時のソ連の人々はどう聴いたのだろう。その想像は難しい。上岡敏之の指揮は激しく没入的なものだったが、その指揮はこの曲の含意と絡み合っていたのだろうか。
(2025.1.21.サントリーホール)