Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

野平一郎/オーケストラ・ニッポニカ「松村禎三交響作品展」

2021年07月19日 | 音楽
 「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」が松村禎三(1929‐2007)の作品を特集した演奏会を開いた。指揮はミュージック・アドバイザーの野平一郎。わたしは久しぶりに松村禎三の代表作の数々を聴き、大きな感銘を受けた。

 1曲目はピアノ協奏曲第1番(1973)。ピアノ独奏は渡邉康雄。ピアノもオーケストラも、じつに真摯な演奏だった。脇目もふらずにこの曲の本質に迫る演奏。わたしはこの曲のCDを持っているし、実演を聴いたこともあるが、それらの経験とくらべても、この演奏の真剣さは特筆ものだった。

 この曲の途方もないエネルギーは、なんと表現したらいいのだろう。金管の絶叫。打楽器の炸裂。それらを縫って持続するピアノの抑揚。まさに破格の音楽だ。いままでにこんな音楽が生まれたことがあったろうか。控えめに言っても、いまの時代にこのような音楽が生まれる余地はあるのだろうかと思った。

 渡邉康雄のアンコールがあった。ピアノ協奏曲第1番での熱狂を鎮めるような、心優しい静かな曲だった。フランス印象派のような曲だが、松村禎三だろうなと思った。紀尾井ホールのツイッターによると、「ギリシャによせる二つの子守歌」から第2番(1969)だった。

 休憩をはさんで2曲目は「ゲッセマネの夜に」(2002/05)。松村禎三の最晩年の曲だ。わたしは実演で聴くのは初めてだ。いままでCDでは聴いていたが、よくわからない曲だったので、実演で聴くとどうなのか、楽しみにしていた。結果、平明な中にも、動揺や、静かな緊張感があり、なにかをつかめた気がした。CDでは理解できなかったシンバルの連打は、イエスの血の汗の滴りなのだと合点がいった。

 ゲッセマネの夜とは、最後の晩餐を終えたイエスが、ゲッセマネの園で神に祈りを捧げる逸話だ。翌日には死を迎えるイエスの恐怖と苦悩が現れる。松村禎三は作曲に当たって、イタリアの画家ジョット(1267頃‐1337)の「ユダの接吻」(1305頃)を参照したと、自身で述べているが、わたしにはオペラ「沈黙」で、牢獄にとらわれたロドリゴ神父が、翌日の踏み絵を前に、ゲッセマネの夜のイエスを思う場面が思い出された。松村禎三はあの場面をもう一度、今度は少し角度を変えて作品化したように思えた。

 3曲目は交響曲第1番(1965)。ピアノ協奏曲第1番と同様に、これも真摯で焦点の合った演奏だった。それにしても、この曲のフィナーレのなんというエネルギーだろう。松村禎三は一時期、ストラヴィンスキーの「春の祭典」に心酔していたというが、たしかにこの曲のフィナーレに比肩するのは「春の祭典」くらいしかないだろうと思った。
(2021.7.18.紀尾井ホール)
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