平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

建築強度偽装問題

2006年01月17日 | 事件・出来事
小島社長、核心で答弁拒否繰り返す…衆院委証人喚問 (読売新聞) - goo ニュース

 この事件も「個人の時代」の起こした事件。
 
 「自分さえよければ何をしてもいい」
 「他人(マンションを買った住人)への想像力の欠如」

 だから「日本人同胞のために死んでいった人間」を描いた「男たちのYAMATO」がウケる。

 小嶋社長は「刑事訴追に関わることだから」という理由で「格好悪く」証言を拒否したが、だから同胞の日本人のために「潔く」死んでいった人間を描いた「男たちのYAMATO」がウケる。

 もうひとつエンタテインメントの立場で言えば、小嶋社長、シナリオを用意して来なかったのかな。
 普通なら罪を免れるために自分の行動のシナリオをウソでも作ってくるものだが。
 推理小説の犯罪者ならそうする。そのシナリオがウソであることを見破るのが、名探偵だ。
 小嶋社長、それほど追い込まれているということか?

 あとは偽装発覚をごまかすために政治家・官僚が暗躍したという可能性。
 エンタテインメントでは使い古されたものだが、まだ現実に行われているらしい。


★研究ポイント
 現実とエンタテインメントの関係。
コメント (2)
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宮崎勤事件

2006年01月17日 | 事件・出来事
宮崎勤被告に死刑 連続幼女殺害事件で最高裁が上告棄却 (朝日新聞) - goo ニュース

 エンタメとは違いますが、今後は事件のことも書いていきます。
 現実の事件には、松本清張の小説しかり、エンタテインメントがテーマとすべき事が多く含まれると考えられるからです。

 さて、この宮崎勤事件は、宮崎被告の部屋が物語るように、現在の「個人の時代」の象徴的な事件でした。

 社会生活を送らずに隔絶した個人の生活を送っていた人間が行き着くところはどこか?
 表現が難しいのですが、隔絶した個人の生活が悪いということではありません。

 社会生活を送るということは、不自由であること、自由な自我を規制されるということです。
 わかりやすい例で言えば、毎朝9時に会社に行かなくてはならないというのは社会生活を送っているからです。間違った判断だと思いながら上司の言うことに従わなくてはならないのは、会社員という社会生活を送っているからです。(そこで、NOと言うところからエンタテインメントは生まれるのですが……)
 ところがこの宮崎被告は隔絶された個人であり、社会の制約というものはありません。(唯一の制約は宮崎被告の場合、祖父であった様ですが、その祖父も亡くなってしまいました)
 そして、そんな自由な自我が行き着く所は、「自分は何をやってもいい」という思いです。宮崎被告の場合は、幼女殺害という方向に行きましたが、その現れ方はやはりこの前判決の出た「監禁王子」の様に様々です。

 また、隔絶された個人は、社会的に自分の存在を認められたくて、劇場犯罪を行います。
 宮崎被告の場合は「今田勇子」の名で送りつけられた脅迫文でした。

 記事によると、裁判は本人に責任能力があるか否かで争われた様ですが、弁護側が主張した「宮崎被告には4つの人格があった」というのも「自由な自我」が行き着く先として、興味深い事例です。
 社会生活を送っていれば、「会社員」「父親」といった社会的役割で自我が規定されるのですが、社会的な存在でない宮崎被告は、犯罪者「今田勇子」になることができます。

 今の時代の犯罪は、かつての様な「貧困」からでなく、「果てしなく自由な自我」が原因になっています。それは「GOTH」など、様々なエンタテインメントの中で描かれています。

 宮崎勤事件は、エンタテインメントの世界でも見逃せない事件でした。

 なお、繰り返しますが、本文は「個人の時代」が悪いと言っているのではありません。何でも極端に行くことが問題なのであって、宮崎被告の場合は「個人」が極端に行ってしまった事例です。
 逆に「個人」がまったくないファシズムの時代の方が恐ろしいと考えています。


★研究ポイント
 現実から生まれるのがエンタテインメント。
 現実の事件から学ぶ。

コメント
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