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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

私の中のもうひとりの私

2006年01月30日 | 洋画
 マリオンは50歳。
 哲学科の教授で夫は優秀な医者。申し分ない人生。
 そんな彼女が本を書き始めるために部屋を借りる。
 部屋の隣は精神カウンセラー、患者と医者の会話が通気口を通じて聞こえてくる。
 その会話をきいて、自分と自分の人生をふり返るというのがこの作品「私の中のもうひとりの私」だ。
 ここでも、ウディ・アレンのテーマである辛辣な現実が描かれる。
 カウンセラーとの会話をきいて、自分の人生の空虚をマリオンは感じるのだ。

 精神科医に患者のホープ(ミア・ファーロー)はこう言う。
「私の人生は実のない人生。偽りだらけで生きてきた人生。自分で自分がわからない。傍にいる夫は他人のように見える」

 これが呼び水になって、マリオンは自分の人生をふり返り、むき出しの現実を知る。
 まず、医者の夫は浮気をしていた。
 ふたりは連れだって友人たちと夕食を毎日のようにとっていたが、それはうわべだけのこと。
 夫の心は離れていたのだ。
 夫の心が離れたのは、子供ができた時のこと。夫は子供を望んだが、マリオンは仕事が大事で子供をおろしたのだ。
 また、マリオンは数年ぶりに親友に会い、親友が自分を憎んでいたことを知らされる。弟に会うと、弟は優秀な姉に抑圧を感じ、彼女の親切を煙たがっていたことを聞かされる。
 すべてを得ていたと思われた現実がガラガラと崩れ去ったのだ。

 マリオンは理性的な人間だった。
 彼女は言われる。
 「いつも感情を抑え、冷たい頭脳だけの人間。そんな人間から人は離れていく」
 マリオンは理性的であるが故に、情熱的なことに尻込みしてしまう人間だった。
 情熱的、感情的になることで自分が失われてしまうことを怖れ、それらから逃げて来た人間だった。

 マリオンはある作家から情熱的な求婚をされていたが、結局、現在の医者の夫を選んだ。
 辛辣な人生がむき出しにされて、マリオンはその人生の選択が間違っていたのではないかと思う。
 そして、打ちのめされた彼女は、その作家が彼女のことをモデルにして書いたという小説を読み始める。
 その小説にはこう書かれていた。
「彼女は激しい情熱を持った女性だった。その抑圧を解きさえすれば」

 自分を愛し、自分を理解してくれていた存在がいたことに少し救われるマリオン。
 マリオンは浮気をした夫と離婚する。
 情熱的な自分を、作品タイトルである「私の中のもうひとりの私」を認識した彼女がその後、どの様な人生を送ったかは描かれていない。


★研究ポイント
 まず、自分と自分の置かれた現実を厳しく見据えよと語るウディ・アレン。
 それはまた別の空虚であるかもしれないが。
 理性的であることと感情的・情熱的であることとは? 
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セプテンバー

2006年01月30日 | 洋画
 自分はその人のことが好きなのにその人は別の人が好き。
 そんな男女の行き違いをこの作品は静かに描いている。
 舞台も田舎のカントリーハウス。
 その家の中だけで展開される室内劇。

 レーンは抑圧された女性だ。
 母親は自由奔放。
 若いころは一時、父を捨てて、ギャングの情婦になったという華々しい経歴を持つ。
 レーンはそんな母親を心の底で嫌悪し、自分はそうなりたくないと思っている。
 それが彼女の抑圧の原因だ。

 レーンは売れない作家のピーターに思いを寄せている。
 ピーターが感じ方が同じで繊細だったからだ。
 だが、ピーターに対して彼女の抱える抑圧から一歩踏み出すことができない。
 そんなレーンに母親は言う。
 「おまえは男性の前で身構えている。でも、心の底は愛の渇きでいっぱいだ。もっと心を開いて若いうちに楽しみなさい」
 母親に心の底で反発するレーンはその言葉が真実だとわかっていても受け入れることができない。

 また、レーンのことを好きな男性もいる。
 隣人のエドワードだ。
 エドワードはレーンに情熱的に迫るが、ピーターのこともあり受け入れることができない。
 エドワードを受け入れれば、レーンの愛の渇きは癒されるかもしれない。
 しかし、それができない。

 ウディ・アレンはこういう人間関係を作る。
 永遠に満たされることのない「愛の渇き」を直視して描く。

 そして、レーンにさらに残酷な試練を与える。
 ピーターがレーンの友人でたまたま遊びに来ていた人妻のステファニーに恋してしまうのだ。
 レーンの恋は実らなかった。
 それを知らないレーンは夢を抱く。
 「今、住んでいる家を売って、ピーターといっしょにニューヨークで生活する」
 そんな夢を見てレーンの心は躍るが、現実が彼女をさいなむ。

 ピーターとステファニーがキスをしている所を目撃し、母親はその奔放さから自分の言ったことを忘れ、「家を売るなんてとんでもない」と言い出すのだ。

 レーンの夢が一気に崩れていく。
 レーンは感情をあらわにして泣き叫ぶ。

 人生は生きにくく、愛はすれ違って満たされないことを描いてきたウディ・アレン。
 そこには甘いロマンはなく、辛辣な現実のみが描かれる。
 これをエンタテインメントである映画が描くのはどうかという議論は分かれる所だが、ウディの姿勢はいつも変わらない。

 ウディ・アレン自身が主人公の時もその姿勢は変わらない。
 ただ作品のタッチは変わる。
 コメディになるのだ。
 主人公ウディ・アレンは愛とセックスを求めてあがき、それがコメディになった。
 観客はあがくウディを笑いながら、自分も同じではないかと思い至る。
 それがウディ・アレンの作品だった。

 ウディが主人公でない女性が主人公の作品、例えば「ハンナとその姉妹」には救いがあった。
 「人のハートの筋肉は案外強くできているのよ」
 うろ覚えだが、そんなせりふがあって、力づけられた。

 だが、「セプテンバー」には、そんな救いもない。
 孤独で愛に満たされない現実のみが辛辣に描かれていた様に思えた。


★研究ポイント
 エンタテインメントは現実を辛辣に描くべきか。
 現実を描くために使われるコメディという手法。
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