三谷幸喜さんの小説『清洲会議』(幻冬舎)。
ここで描かれている武将たちの人物像が面白い。
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まずは丹羽長秀。
彼は、道理と利益で動く。
だから秀吉は長秀について、次のように分析している。
「丹羽様は間違いなく寝返る。丹羽様のように、頭で考えて行動する対応の人間は、むしろ与しやすいのだ。道理を説けば納得してもらえるし、利益を持ち出せば、必ず食いついてくる。むしろ骨が折れるのは、親父様のように単純で、感情で動くタイプだ」
長秀自身もこう考えている。
「これからの時代、本当に必要なのは、筑前のような男なのだ。
柴田権六勝家は、決して悪い男ではない。しかしあまりにも感情に走りすぎる。筑前の言う通り、今は織田家にとって正念場である。権六に任せてしまっていいものか。
ここは思い切って、筑前にかけてみるか。彼に織田と、そしてわが丹羽家の未来を託すのだ。
一方で、権六のことも気にかかる。土壇場で私が筑前の側に付いたら、私を信じ切っている権六は、さぞやショックを受けるに違いない。
心情的には、やはり権六を応援したい。しかし、利を考えると、間違いなく筑前秀吉なのである。
一体、私は明日、どちらに付けばよいのだ」
情と理性・利益。
自分はどちらで動くタイプなのか、考えてみるのも面白いかもしれませんね。
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池田恒興は、自分を<二流の人>として考えている。
「俺は武将としてはさほど優れていたわけではない。戦だってそんなにうまくないし、人望だって厚くない。そんなことは分かっている。それでもここまで生き延びてこられたのは、もちろん信長公の乳兄弟ってこともあるけど、それだけじゃない。俺にはな、誰にも負けない才能があるんだ。勝ち馬に乗るっていう才能が。強い奴の匂いを嗅ぎ分け、俺はいつもそいつの側につく」
「これからは藤吉郎の時代だ。とことん、奴にしがみついていこうな、犬千代(=前田利家)。それが俺たちみたいな、一流になりきれない男の生きる道なんだ。天は、俺たちに天下を治める力を与えてくれなかったが、天下人を見抜く目だけは下さった。お互い、しぶとく生きていこうぜ」
二流は二流なりに、生き様があるのだ。
多くを望まず、身の丈に合った生き方をする。
「お互い、しぶとく生きていこうぜ」と前田利家に語る所なんかは、どこか清々しい。
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信長の弟の織田信包は、完全に世捨て人だ。
偉大な兄がいたせいであろうか、彼は<風流>に生きる。
秀吉の軍師・黒田官兵衛は織田信包を次のように評している。
「確かに、三十郎様は変わり者で有名です。ご本人さえその気になれば、信長様の遺志を継いで、織田家を牛耳ることの出来る立場におられたにも拘わらず、今は世捨て人のような生活をされております。何事につけアクティブだった兄上様とは対照的に、すべてにおいて控えめなご性格で、立身出世を求めず、政(まつりごと)にも一切関心を示さない。今は城の片隅で日がな一日茶の湯を楽しむ酔狂なお方です」
織田信包も自分自身についてこう語っている。
「決して平和主義者なのではない。私は自分自身の実力を知っていたのだ。勝てないことがわかっているのに戦うほど、私は無鉄砲ではないだけのこと。負けた時のダメージが想像つく分、戦う気になれないのだ」
「自分で言うのもなんだが、それだけ私は重要なポジションにいた。そして同時に、それだけ重要なポジションにいても、ほとんど存在感がなかったということは、どれだけ私の影が薄かったかの証明でもある。
しかし、私はそれを誇りにしている」
現実と戦わず、風流に生きる。
これもひとつの生き方だ。
しかも織田信包は、「私はそれを誇りにしている」と語っているように、逃避の生き方を卑屈に思っていないんですね。
ここで描かれている武将たちの人物像が面白い。
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まずは丹羽長秀。
彼は、道理と利益で動く。
だから秀吉は長秀について、次のように分析している。
「丹羽様は間違いなく寝返る。丹羽様のように、頭で考えて行動する対応の人間は、むしろ与しやすいのだ。道理を説けば納得してもらえるし、利益を持ち出せば、必ず食いついてくる。むしろ骨が折れるのは、親父様のように単純で、感情で動くタイプだ」
長秀自身もこう考えている。
「これからの時代、本当に必要なのは、筑前のような男なのだ。
柴田権六勝家は、決して悪い男ではない。しかしあまりにも感情に走りすぎる。筑前の言う通り、今は織田家にとって正念場である。権六に任せてしまっていいものか。
ここは思い切って、筑前にかけてみるか。彼に織田と、そしてわが丹羽家の未来を託すのだ。
一方で、権六のことも気にかかる。土壇場で私が筑前の側に付いたら、私を信じ切っている権六は、さぞやショックを受けるに違いない。
心情的には、やはり権六を応援したい。しかし、利を考えると、間違いなく筑前秀吉なのである。
一体、私は明日、どちらに付けばよいのだ」
情と理性・利益。
自分はどちらで動くタイプなのか、考えてみるのも面白いかもしれませんね。
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池田恒興は、自分を<二流の人>として考えている。
「俺は武将としてはさほど優れていたわけではない。戦だってそんなにうまくないし、人望だって厚くない。そんなことは分かっている。それでもここまで生き延びてこられたのは、もちろん信長公の乳兄弟ってこともあるけど、それだけじゃない。俺にはな、誰にも負けない才能があるんだ。勝ち馬に乗るっていう才能が。強い奴の匂いを嗅ぎ分け、俺はいつもそいつの側につく」
「これからは藤吉郎の時代だ。とことん、奴にしがみついていこうな、犬千代(=前田利家)。それが俺たちみたいな、一流になりきれない男の生きる道なんだ。天は、俺たちに天下を治める力を与えてくれなかったが、天下人を見抜く目だけは下さった。お互い、しぶとく生きていこうぜ」
二流は二流なりに、生き様があるのだ。
多くを望まず、身の丈に合った生き方をする。
「お互い、しぶとく生きていこうぜ」と前田利家に語る所なんかは、どこか清々しい。
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信長の弟の織田信包は、完全に世捨て人だ。
偉大な兄がいたせいであろうか、彼は<風流>に生きる。
秀吉の軍師・黒田官兵衛は織田信包を次のように評している。
「確かに、三十郎様は変わり者で有名です。ご本人さえその気になれば、信長様の遺志を継いで、織田家を牛耳ることの出来る立場におられたにも拘わらず、今は世捨て人のような生活をされております。何事につけアクティブだった兄上様とは対照的に、すべてにおいて控えめなご性格で、立身出世を求めず、政(まつりごと)にも一切関心を示さない。今は城の片隅で日がな一日茶の湯を楽しむ酔狂なお方です」
織田信包も自分自身についてこう語っている。
「決して平和主義者なのではない。私は自分自身の実力を知っていたのだ。勝てないことがわかっているのに戦うほど、私は無鉄砲ではないだけのこと。負けた時のダメージが想像つく分、戦う気になれないのだ」
「自分で言うのもなんだが、それだけ私は重要なポジションにいた。そして同時に、それだけ重要なポジションにいても、ほとんど存在感がなかったということは、どれだけ私の影が薄かったかの証明でもある。
しかし、私はそれを誇りにしている」
現実と戦わず、風流に生きる。
これもひとつの生き方だ。
しかも織田信包は、「私はそれを誇りにしている」と語っているように、逃避の生き方を卑屈に思っていないんですね。