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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

功名が辻 2

2006年01月23日 | 大河ドラマ・時代劇
第3話「運命の再会」

 メインモチーフは「竹中半兵衛と秀吉」だ。

 まず、秀吉を描いた。
 墨俣城築城だ。
 秀吉は斎藤側の攻撃を受けながらたった3日で、城を築いた。

 次に、半兵衛を描いた。
 稲葉山城奪取だ。
 半兵衛はわずか16人でこの難攻不落と言われる城を手に入れた。

 そして、秀吉と半兵衛は出会う。
 すごい男たちが出会うのだ。
 何が起こるのだろうと観る者は思う。
 秀吉は半兵衛を織田側に寝返らせようとする。
 秀吉と半兵衛が組めば、秀吉軍はどんなに強くなるだろうと観る者は思う。
 「兵を損なわずに勝つこと」を秀吉と半兵衛は兵法の理想としているから、いずれはこのふたり手を結ぶだろうなと思わせる。

 サブモチーフは「千代の心の葛藤」だ。

 千代を育てた不破市之丞は「千代と家中のしかるべきものとの縁談を進める」と言う。
 一豊のことが忘れられない千代は葛藤する。
 育ててくれた不破の愛情を裏切ることはできない。母は美濃が自分の拠って立つ場所だと教えた。しかし、一豊のことが好きだ。
 その千代の葛藤を見抜いて、半兵衛が動く。
 千代と一豊を自分の庵で再会させるのだ。

 ここでメインモチーフとサブモチーフが関わりを持つ。
 見事な構成だ。

★研究ポイント
 シナリオは数学に似ていると言われる。
 今回は、A×B=C
 Aは秀吉。
 Bは半兵衛。
 そのAとBが掛け合わされ、Cというドラマチックな効果を生む。

 Cは「千代の恋」というサブプロットにも影響を及ぼす。

★追記1
 大河ドラマでは「ナレーション」が巧みに使われている。

 墨俣築城では「秀吉は現在のプレハブ工法の様なやり方で城を作った」とナレーションで語り、墨俣築城と攻めてくる斎藤との攻防を映像ではさみ、「こうして城は3日で出来上がったのである」とナレーションで締めた。
 
 稲葉山城奪取では「酒と女にふける斎藤龍興。半兵衛が稲葉山城を乗っ取るのは、その1ヶ月後である」とナレーションで語り、「竹中半兵衛、義によって稲葉山城を貰い受ける」と言って城を占拠する映像を入れて、「その後、半兵衛は小さな庵に移り住んだ」というナレーションで締めている。

 ナレーション+映像+ナレーション という構成である。

★追記2
 ある場面に「プラスアルファの感情」を付与するのもシーン作りとして、学びたいところだ。

 半兵衛の城にやって来た秀吉と一豊。
 大きくなった千代に一豊は茶を出す。
 単なる茶を出すという芝居だが、一豊との再会に千代の心は揺れる。
 この「再会に揺れる千代の心」をシーンに付与することで、単なる茶を出す芝居が名シーンになる。

 千代は自分が千代であることをわからせるために、一豊に想い出の品をチラリと見せる。この小道具の使い方も見事だ。
 半兵衛も千代の気持ちを見抜いたのか、「秀吉殿とふたりで話したいから」と言って、一豊に席を外させ、千代と話を作る機会を設けた。

★追記3
 千代と再会した一豊は千代のことが忘れられず、槍を振るいながら「千代~!」と叫ぶ。
 それを見ている家臣は「変なかけ声じゃのう」「おなごの名前では」と語り合う。
 ユーモアと共に一豊の実直さが現れた見事なキャラクター描写だ。
 槍を振るっている場所が、尾張と美濃を隔てる国境の河だというのも象徴的だ。
 
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喰いタン

2006年01月22日 | 推理・サスペンスドラマ
「喰いタン」の主人公・高野聖也(東山紀之)はひたすら食べることによって事件を解決する。

「喰いタン」、すなわち「くいしんぼう探偵」。
 彼の能力は、ラーメン10杯ぐらいは軽くいける強靱な胃袋を持ち、材料を見ただけで出来上がった料理の味がわかってしまう、というもの。

 第2話は殺された横浜中華街の主人の胃に麻婆豆腐の材料が残っていたところから、「喰いタン」に仕事が依頼される。警察が「殺害場所を麻婆豆腐を食べた店だ」と考えたからだ。100近くある中華街の麻婆豆腐を喰いタンに食べてもらい殺害場所を特定しようというわけだ。

 この作品は、新しいコンセプト(「ひたすら食べて事件を解決する」)があれば、新しい探偵・ドラマを作り出せるということを教えてくれる。

 ただし、それを作る作家に専門知識は必要。

 事件は、胃の中の「豆腐、挽き肉、長ネギ、唐辛子、味噌」が実は麻婆豆腐を食べたからではなく、別の料理を食べたから残ったということに喰いタンが気づいて解決するのだが、これがアイデア・思いつきを作品にできるかどうかの分かれ目だ。

 つまり、「豆腐、挽き肉、長ネギ、唐辛子、味噌」から出来る料理が麻婆豆腐でなく、●●と■■であることを作家は知っていなくてはならないのだ。

 この作品の作者は寺沢大介。
 「ミスター味っ子」を書いたこの作家は料理についての造詣が深い。だから、この作品が生み出せたと言える。
 推理ドラマと自分の専門である料理を組み合わせたのだ。
 推理ドラマを書ける作家はいるが、料理について異常に詳しい作家はいない。

 これからの作家は、自分の専門分野をどれだけ持てるかが重要になってくるであろう。


★研究ポイント
 企画とは「異質なものの組み合わせ」。
 例えば、推理ドラマと料理。
 作家は自分の得意分野を持つべき。
 それが他が真似のできない個性になる。
 ただ、これだけ情報が溢れている現在、個性となるほどの専門知識を持つには時間がかかる。

★追記
 ドラマ後半、「マイ箸」を使って喰いタンが犯人アクションするシーンはおかしかった。かつて「刑事物語」で武田鉄矢の刑事がハンガーを武器として使った様に日常どこにでもあるものでアクションするというのは新鮮だ。
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亡国のイージス

2006年01月21日 | 邦画
「現在、本艦全ミサイルの照準は東京・首都圏内に設定されている。その弾頭は通常にあらず」

 占拠されたイージス艦「いそかぜ」。
 占拠したのは、副長の宮津と某国対日工作員ヨンファ。
 宮津はその思想を危険視した権力によって息子を殺されたことを恨み、ヨンファと手を組んだのだ。(彼の息子は守る価値のない現在の日本を憂慮した論文を書いていた。息子の主張は、そんな価値のない日本なら壊してしまえばいいというものだ)

 それに対抗するのは、先任伍長の仙石。
 宮津やヨンファの様な主義主張はない。
 彼がイージス艦で単身戦うのは、「この船を守るのが俺の任務である」ことと、自分の部下でもある「如月」(ヨンファらの行動を阻止するために派遣された防衛庁情報局DAISの諜報員)を守るため。
 やがて、彼はヨンファたちがわずか1リットルで東京を壊滅させる兵器「GUSHO」(グソー)を持っていることを知り、その投下を阻止するために戦う。
 
 この作品で描かれているのは、主義主張の怖さだ。
 現在の日本を「亡国」と見る宮津の主義主張、ヨンファの主義主張。
 それらを持つことによって人はどんな大量殺人も行えるようになる。
 戦争を行えるようになる。

 それに対して、イージス艦の中で戦う仙石は「人間」であろうとする。
「おまえは戦争がわかっていないというが、おまえは人間がわかっていない。命を奪うかの奪われるかの戦闘中であっても、銃を撃つ時ためらうのが人間だ」
 副長の宮津も息子を愛するひとりの父親であり、艦を奪った動機には息子のことがあるのだが、ひとりの人間に戻った時、ある行動に出る。

 宮津らに要求を突きつけられた政府(内閣安全保障会議)の対応はクールだ。
 GUSHOに対抗する兵器を使って、「いそかぜ」を沈めようとする。
 ゲーム画面で戦争ゲームをするような感覚だ。
 そこには、宮津らの要求を飲むという選択肢・葛藤はない。
 飲めば、GUSHOという兵器の存在が知られ、スキャンダルになる。
 わずかにあるのは、対抗兵器の使用によって被害が「いそかぜ」以外に及ぶこと。

 GUSHOという力を持ったヨンファ、権力を持った総理大臣。
 力を持つ者は「人間」でなくてはならない。
 力を使う時は葛藤しなければならない。
 ちょうど、仙石が如月に言ったように。
「命を奪うかの奪われるかの戦闘中であっても、銃を撃つ時ためらうのが人間だ」

★研究ポイント
 主義主張を持ったキャラクター・権力、力を持ったキャラクター
         VS
 人間でありたいと思うキャラクター

 この対立図式。
 人は「主義主張を持つ」と「力を持つ」と「高みに立つ」と、人間にとって何が本当に大切なのかが見えなくなる。
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SHINOBI

2006年01月20日 | 邦画
 山田風太郎の「甲賀忍法帖」が原作。
 冒頭のアクションがワイヤーアクションだったので、「荒唐無稽に命をかけた」山田風太郎の世界が香港映画の様に再現されることを期待したのだが、残念、中途半端で終わってしまった。

 映画では5対5だが、原作では10対10の伊賀・甲賀の全面対決。
 数が減ったのも残念だった。

 原作で描かれた忍者はこうだ。

 ★甲賀十人衆(甲賀卍谷)
 甲賀弾正・鵜殿丈助・甲賀弦之介・如月左衛門・地虫十兵衛・室賀豹馬・風待将監・陽炎・霞刑部・お胡夷

 ★伊賀十人衆(伊賀鍔隠れ)
 お幻・雨夜陣五郎・朧・筑摩小四郎・夜叉丸・蓑念鬼・小豆蝋斎・蛍火・薬師寺天膳・朱絹

 忍者の名前を見ただけでもワクワクしてくる。

絶対に死なない忍者・薬師寺天膳。
 相手の顔を奪ってしまう如月左衛門。
 長い袖から黒い縄を繰り出す縄術の夜叉丸。
 幼い頃から毒を飲まされ身体中に毒を有している陽炎。
 相手の剣の鉾先を反転させて自分で自分を攻撃してしまう弦之介。
 見つめることで相手を葬る朧。

 すごい忍者たちだ。
 これならハリウッドにも香港えいがにも太刀打ちできる。 
 ところが映画では、忍者の描写は不親切で、彼らがどんな奇想天外な術を使うかが描かれていない。

 製作意図というものはある。
 仲間由紀恵・オダギリジョーを使う以上、恋愛ドラマにしなくてはならないのはわかるが、原作のどこが面白いのかは考える必要はある。
 恐らく山田風太郎先生、「ロミオとジュリエット」の恋愛話はあくまで味付けであり、奇想天外な忍者を描きたかったに違いない。
奇想天外な忍者を面白がって書かれていたに違いない。

★研究ポイント
 原作をどう切るか?
 その切り口は観客が求めているものか?

★追記
 この作品のテーマには次の2点があった。
・平和の世になり自らの存在意義がなくなった忍者の苦悩。
 陽炎は言う。
「あたしたちは戦うことしかできないのに、それを否定されたらどうすればいいの?」
・運命論
 朧を守って死んだ少女・蛍火。
 伊賀のメンバーに蛍火が選ばれた理由は、蛍火に「朧を守って死ぬ」運命があったからだと説明する。
 人は決められた運命から逃れられないという運命論だ。
 朧はその決められた運命を否定するためにある行動に出るのだが。
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視線のエロス

2006年01月19日 | 洋画
 全編、恋人を見つめる男の視線で描いた作品。
 確かに視線というのはエロチックだ。

 物語は39歳の妻子持ちの男フランソワが22歳の恋人ミュリエルと別れるまでが描かれる。
 そこにあるのは不倫。
 ミュリエルはセックスの後、妻のもとに帰っていくフランソワに不満を持ち、フランソワは別の若い恋人ができたことに嫉妬する。
 そして、この中年男はミュリエルと別れた後も未練たらたらだ。
 ラスト、フランソワはミュリエルに手紙を書く。
「君に会うまで愛も憎しみも知らなかった。君や君の肉体に倦むことを願ったが、それもできず、君への想いは尽きない。今は君と過ごした記憶があるだけだが、記憶には情熱を留めておくことはできない」

 この作品はミュリエルの変わりようが面白い。
 最初、彼女は不倫なんてとんでもないと考えている常識人だった。
 そんなミュリエルを口説きまくるフランソワ。
「僕は君に会うたびに口説き続ける。君となら何時間でもセックスできそうだ」
「彼とのセックスは物足りないんじゃなかったのか」
「君の手に触らせてくれ」
「君のはだかを見てみたい。決して触れないから。君のはだかを見るために高級ホテルのスウィートをとったよ」
 そんな口説き方をされて、不倫に応じるミュリエル。
 それから彼女は段々大胆になっていく。
 郊外にあるフランソワの別宅に行くと、夫婦の寝室で寝たがる。そして言う。
「夫婦の寝室で私はしたい。私はすごく興奮するわ」
 フランソワの経営するブティックに行きセーターを買った時、ミュリエルはこう思ったという。
「あなたの触れた胸を奥さんに見せたかった」

 この作品は男の視線で恋愛を描いた実験作だが、内容と映像の意図はあまりうまくリンクしていない。
 中年男の若い女性を見る視線がもっと「いやらしく」「美しく」強調されれば、エロティックになっていたと思うのだが……。


★研究ポイント
 視線、主観表現は映像のモノローグ。
 小説で言う「私は……」の表現。
 もっと研究され効果的に使われてもいい。
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Ns’ あおい 第2話

2006年01月18日 | 職業ドラマ
「Ns’あおい」第2話は、ドラマづくりで必要なことを教えてくれる。

 今回の患者は製薬会社のMR・野呂。
 自分の会社の薬を買ってもらうため医師・田所を接待している。

 その接待のひとつとして、野呂は特別室(1泊・10万円)を使用しての検査入院をする。
 検査の理由は痔なのだが、大腸の内視鏡検査をしている時に、良性のポリープを発見。念のために取っておこうということになるが、現場の仕事をすることのない田所は、ミスで野呂の腸に穴を開けてしまう。穿孔である。

 あおいは術後の経過がよくないことに気づき、「穿孔」ではないかと主張するが、施術した田所は議員の接待で忙しく、他の医師は自分の領域を越えて患者を診ることに消極的だ。
 それでもがんばるあおい。
 先輩の看護婦には「医者はプライドの生き物。(自分のミスを指摘されて)プライドを傷つけられて、「はい、そうですか」というわけがない。
もっと、医者の扱い方を勉強しなさい」と怒られるが、それでも負けない。
 レントゲン技師に「写真を撮ってくれるまで離れません」と言ってトイレまでついて行き、レントゲン写真を撮らせ「穿孔」であることを確認する。
 外科医が他の手術でいっぱいだとわかると、パーティに出かける副院長の外科医に直談判する。
 こうして手術が行われ野呂は助かるという物語だが、ここにはドラマを作るために必要なことが多く盛り込まれている。

 まずは「障害」だ。
 あおいは看護婦で医師の領域で治療することができない。
 内科と外科の関係もある。
 それでもがんばる所に主人公のヒロイン性が出て来る。

 第2に「葛藤」だ。
 この場合はレントゲン技師と婦長だ。
 レントゲン技師は、医師の許可なくレントゲンを勝手に撮ることができない。
 しかし、患者を目の前にして何とかしたいと思う。
 この「葛藤」だ。
 婦長の場合も同様。
 医師の領域に踏み込むことができないし、自分のいる内科・医師の田所の不祥事を公にできないという想いと患者を助けたいという想いが「葛藤」する。

 第3は「変化」だ。
 レントゲン技師はあおいに熱心に頼まれて、野呂のレントゲン写真を撮る。
 技師は言う。
 「俺たち使い捨てパンツにも意地がある所を見せてやるぜ」
 (この前段で、あおいとこの技師は「看護士や技師はいつでも替えがきく使い捨てパンツのようなものだ」という話をしている)
 婦長は「(患者の)あんな状況をみて、あんたは放っておけるのかよ」と技師に詰め寄られ、「やりましょう。外科に(手術を)かけ合います」と言う。
 あおいの力により、ふたりの「葛藤」は解消され、「変化」している。

 この第2話はドラマの基本である「障害」「葛藤」「変化」を描いている。


★研究ポイント
 ドラマの基本は「障害」「葛藤」「変化」。
 「葛藤」が解消される時、カッコイイせりふや動作があるとさらに盛り上がる。

★追記
 この話では「看護士」とは何かについても描かれている。
 「看護士は患者と医師をつなぐもの」
 「看護士の励ましや笑顔が患者を勇気づける」
 これをあおいは人から言われて、「看護士」である自分を確認し、行動するのだ。
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建築強度偽装問題

2006年01月17日 | 事件・出来事
小島社長、核心で答弁拒否繰り返す…衆院委証人喚問 (読売新聞) - goo ニュース

 この事件も「個人の時代」の起こした事件。
 
 「自分さえよければ何をしてもいい」
 「他人(マンションを買った住人)への想像力の欠如」

 だから「日本人同胞のために死んでいった人間」を描いた「男たちのYAMATO」がウケる。

 小嶋社長は「刑事訴追に関わることだから」という理由で「格好悪く」証言を拒否したが、だから同胞の日本人のために「潔く」死んでいった人間を描いた「男たちのYAMATO」がウケる。

 もうひとつエンタテインメントの立場で言えば、小嶋社長、シナリオを用意して来なかったのかな。
 普通なら罪を免れるために自分の行動のシナリオをウソでも作ってくるものだが。
 推理小説の犯罪者ならそうする。そのシナリオがウソであることを見破るのが、名探偵だ。
 小嶋社長、それほど追い込まれているということか?

 あとは偽装発覚をごまかすために政治家・官僚が暗躍したという可能性。
 エンタテインメントでは使い古されたものだが、まだ現実に行われているらしい。


★研究ポイント
 現実とエンタテインメントの関係。
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宮崎勤事件

2006年01月17日 | 事件・出来事
宮崎勤被告に死刑 連続幼女殺害事件で最高裁が上告棄却 (朝日新聞) - goo ニュース

 エンタメとは違いますが、今後は事件のことも書いていきます。
 現実の事件には、松本清張の小説しかり、エンタテインメントがテーマとすべき事が多く含まれると考えられるからです。

 さて、この宮崎勤事件は、宮崎被告の部屋が物語るように、現在の「個人の時代」の象徴的な事件でした。

 社会生活を送らずに隔絶した個人の生活を送っていた人間が行き着くところはどこか?
 表現が難しいのですが、隔絶した個人の生活が悪いということではありません。

 社会生活を送るということは、不自由であること、自由な自我を規制されるということです。
 わかりやすい例で言えば、毎朝9時に会社に行かなくてはならないというのは社会生活を送っているからです。間違った判断だと思いながら上司の言うことに従わなくてはならないのは、会社員という社会生活を送っているからです。(そこで、NOと言うところからエンタテインメントは生まれるのですが……)
 ところがこの宮崎被告は隔絶された個人であり、社会の制約というものはありません。(唯一の制約は宮崎被告の場合、祖父であった様ですが、その祖父も亡くなってしまいました)
 そして、そんな自由な自我が行き着く所は、「自分は何をやってもいい」という思いです。宮崎被告の場合は、幼女殺害という方向に行きましたが、その現れ方はやはりこの前判決の出た「監禁王子」の様に様々です。

 また、隔絶された個人は、社会的に自分の存在を認められたくて、劇場犯罪を行います。
 宮崎被告の場合は「今田勇子」の名で送りつけられた脅迫文でした。

 記事によると、裁判は本人に責任能力があるか否かで争われた様ですが、弁護側が主張した「宮崎被告には4つの人格があった」というのも「自由な自我」が行き着く先として、興味深い事例です。
 社会生活を送っていれば、「会社員」「父親」といった社会的役割で自我が規定されるのですが、社会的な存在でない宮崎被告は、犯罪者「今田勇子」になることができます。

 今の時代の犯罪は、かつての様な「貧困」からでなく、「果てしなく自由な自我」が原因になっています。それは「GOTH」など、様々なエンタテインメントの中で描かれています。

 宮崎勤事件は、エンタテインメントの世界でも見逃せない事件でした。

 なお、繰り返しますが、本文は「個人の時代」が悪いと言っているのではありません。何でも極端に行くことが問題なのであって、宮崎被告の場合は「個人」が極端に行ってしまった事例です。
 逆に「個人」がまったくないファシズムの時代の方が恐ろしいと考えています。


★研究ポイント
 現実から生まれるのがエンタテインメント。
 現実の事件から学ぶ。

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特命係長 只野仁

2006年01月16日 | コミック・アニメ・特撮
 「特命係長 只野仁」(柳沢きみお著 ぶんか社コミックス)は実にオトコに都合のいい作品だ。

 内容は「只野仁は大手広告代理店の窓際係長。だが、彼には彼には会長直属の特命係長として様々なトラブル・事件を解決する裏の顔があった」というもの。
 高橋克典主演でドラマにもなったが、この主人公、セックスが凄くて只野を見るとどんな美女でも人気女子アナでも「ステキー。あ~~っ、私ダメ~。抱いていますぐ抱いて。あ~、私ってどうしちゃったの~。抱いて~~!!」となってしまう。

 そして、別れた翌日も「どうやったらあの人とまた会えるの……。あ~~っ、あの人に抱かれたい~~っ。なんだって言うことをきくわ~」「会いたくて気が狂いそうよ。あの鋼のようなシャープなカラダ!あのセックス。あ……思い出しただけで濡れてきちゃった」と女性を悶々とさせるのだ。

 只野はこうやってセックスで美女を籠絡して、事件を解決していく。
 単純明快だが、このストレートさがストレスに悩む中年サラリーマンの心を掴むのだろう。
 只野がジェームス・ボンドの様な存在でなく、窓際族というのも共感させる仕掛けだ。
 只野は会社では虫けらの様に彼を嫌っているプライドの高い秘書課の坪内紀子を抱いて虜にしてしまう。
(女たちにはなぜか只野がメガネを外してしまうと、別の人間に見えてしまうのだ)
 会社でバカにされていても、ベッドでは虜にさせてしまうという図式である。

 また、只野が懲らしめるのは、「金を横領して、愛人を3人も囲い、銀座のクラブで豪遊する精力絶倫部長」であったり、「特権で女子大生をものにしてしまう大学教授」などである。
 これも世の男性の溜飲を下げるのであろう。

★研究ポイント
 自分をバカにしているプライドの高い女性、相手に絶対にされない女性を抱いてみたいという世の中の男性の欲望を代弁した作品。
 これは中年オトコのマーケッティングによって生み出された作品だ。

★追記
 様々な男たちから貞操を狙われている山吹一恵という女性社員がいて、彼女の貞操が危なくなると、只野が助けるという図式も面白い。

 また、罠であったが冴えない中年の上司・佐川に若い恋人ができた時、彼が言った言葉も悲哀を感じる。
「この幸せがいつまでも続くわけがない。そう思うとこわくなるばかりで、彼女がいなくなったら……それからの人生を考えると、絶望してしまうのだよ。それなら、いっそこんな夢見なかったほうがよかったんじゃないかと……」


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功名が辻

2006年01月16日 | 大河ドラマ・時代劇
 ドラマが主人公の葛藤で作られるとすると、第2話「決別の河」は見事な内容でした。

 千代は次のような葛藤をします。

1.一豊への想い
 「好き」といくさをする侍は「嫌い」という葛藤。

2.自分の居場所
 一豊の母の家に留まるべきか叔父の家に行くべきかという葛藤。
 「留まってほしい」と言う好きな人の言うことに従うべきか、死んだ母の残した言葉「あなたの居場所は美濃です」に従うべきか?という葛藤。

3.尾張か美濃か
 尾張に味方すべきか美濃に味方すべきか?

 重複してはいますが、これだけの葛藤を千代に背負わせたドラマ作りは見事です。
 千代は母親に甘えたい盛りの子供。
 それだけに、こんな葛藤を背負わされ決断を迫られる千代に余計せつなさを感じます。
 一豊への想いを「わらじ」に集約させた小道具の使い方も見事です。

 今後は「竹中半兵衛か一豊か?」という葛藤のドラマが作られるのでしょうが、今後が楽しみです。

★研究ポイント
 主人公にできる限り多くの葛藤を背負わせるかがドラマ作りのポイント。

★追記
 この第2話では秀吉のキャラクターの立たせ方も見事でした。
 「桶狭間」で勝利した後、「次は岡崎の松平元康を攻める」と信長の家臣が言っている中、「次は美濃だ」と読む秀吉。
 いくさで殺し合うのは嫌いだと言って、一豊に自分を守らせ、いくさよりは調略で国を奪うことに力を注ぐ秀吉。
 他のキャラクターとは違った立ち位置に置くことで、キャラクターを立たせるといういい例です。
 
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