平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

マイ★ボス マイ★ヒーロー 第9話

2006年09月10日 | 学園・青春ドラマ
 若頭・真喜男と高校生マッキー。

 ヤクザであることがわかれば、高校生活で得た友情や恋は失われてしまう。
 真喜男とマッキー。
 そのどちらかを選ばなくてはならなくてはならない。
 跡目選挙はそれを考えるきっかけ。
 結局、真喜男(長瀬智也)は若頭を選んだ。
 マッキーは高校卒業と共にいなくなる。
 しかし、真喜男は思う。
 マッキーとして過ごした高校生活の思い出は自分の中で失われることはない、と。
 和弥(田中聖)は言う。
 3Aのクラスメイトやひかり(新垣結衣)たちもマッキーのことを忘れないだろうと。
 真喜男には、その言葉が嬉しい。 

「真喜男は卒業と共にいなくなるか?」
 これがこの物語のクライマックスのテーマとなった様だ。

 真喜男がヤクザだとわかった時のみんなのリアクションはどうなるか?
 今回は鉄仮面・南先生(香椎由宇)でチラリとそれを見せた。
 卒業まで1週間、交換日記をやりたいと申し出た真喜男に南は怒った様な表情。
「あなたって……」
 その後の言葉は「私たちを騙してたの?」
 南は偶然、真喜男の正体を知ってしまったのだ。

 真喜男がやくざだとわかった時、同じ様なリアクションが予想される。
 信じていた者は「騙されていた」と思い、ある者は「怖い」と思う。
 これでマッキーは彼らの心の中からいなくなるばかりでなく、嫌悪の存在として彼らの心に残る。
 同時に真喜男の心にも。
 あれほど輝いていた高校生活の思い出が、つらい苦しいものに変わる。
 やっぱり学校なんて行くんじゃなかった。
 学校の否定。
 つらい思い出を作るために頑張った自分がバカらしくなる。
 元の心が空っぽの真喜男に逆戻りだ。

 次回は最終回。
 ヤクザの抗争に巻き込まれ、真喜男の正体を知ったクラスメイトたちのリアクションがポイントだ。
 テレビドラマだからいったんは否定、しかし最後には受け入れるという形にはなるだろうが、卒業式、すごく感動的なシーンが見られそう。

 卒業して真喜男がヤクザだとわかっても、みんなの心にマッキーは生き続ける。
 できれば、ずっと友達でいてほしい。
 そんなハッピーエンドを見たい。

 正体がばれること。
 「真喜男」と「ミッキー」。
 こうしたアイデンティティの問題をドラマにした作品は珍しい。
 第1話のレビューで一部の人間に正体がばれるのが普通と書いたが、このラストのクライマックスのために最後まで正体を明かさなかったのだとわかった。

★追記
 跡目争いの演説で「自分は強くなった」と語った真喜男。
 「強さ」とは何だろう?
 その演説の前に真喜男は和に「高校に行け」と言った。
 人のために何かをすること、人を思うこと。
 これが強さだとこの作品の作家は言っている。
 この辺も次回のやくざとの抗争でどう描かれるか注目だ。

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ロボット映画あれこれ

2006年09月09日 | 洋画
 映画にはたくさんのロボットが登場する。

「スターウォーズ」では、おなじみのC-3POとR2-D2。
 金色で人型のC-3POは言語・通訳・文化・外交関係の知識をプログラムされたプロトコル・ドロイドと言われる種類のドロイド。
 R2-D2はアストロメック・ドロイドという種類のドロイドで、宇宙線の修理保全や航行や航法を補助する。
 いずれも人間を支援するロボットで、「スターウォーズ」の物語の目撃者・語り部でもある。

「新スタートレック」では、エンタープライズ号の主任ナビゲーター、データ少佐だ。
 データは精巧なアンドロイドで宇宙の航行に欠かせない存在だが、同時に愛すべきキャラクターだ。
 彼は人間に近づこうとして奮闘する。乗組員たちがジョークで笑っているのに自分にはその意味がわからず、自分にはユーモア感覚がないと悩む。感情チップを入れられて感情を持ったのはいいが、自分の感情を制御できず集中力を失い仕事が手につかない。
 不死身の存在である彼は人間の宗教観に興味を持つ。
 人口の皮膚を移植され皮膚感覚の快楽を覚えてしまいエッチも出来るようになる。データは人間以上に人間的なのだ。
 なお、データには善悪の判断がつかないプロトタイプのアンドロイド・兄のロアがいる。

 人間を襲うアンドロイドでは、やはり「ターミネーター」であろう。
 彼はインプットされた命令どおりに行動する。そこには微塵の感情もためらいもない。ターゲットを追いかけ殺そうとするだけである。
 続編ではこのアンドロイドは感情を持ち始め、主人公を守ろうとするのだが、インプットされた命令どおりに行動する第1作の姿が一番衝撃的であった。

 ロボットが人間を襲う作品には「ウエストワールド」という作品があった。
 テーマパークのアトラクションのロボットたちが意思を持ち暴走する。顔のパーツを外すと機械部分が露出するという描写はこの作品が初めて行ったもので、非常にインパクトがあった。

 SF作家アイザック・アシモフへのリスペクト作品では、最近公開された「アイロボット」がある。
 「人間に危害を加えてはいけない」というロボット三原則を無視して、ロボットが殺人を犯した。その事件をロボット嫌いでアナログ派の刑事が追うという物語だが、登場するロボットのデザインが素晴らしい。ロボットが透明なのだ。光の当て方によってそのロボットは光り輝く天使にもあり、メカニズムが見える奇怪な物体にも見える。ロボットデザインのパトリック・タトポロスは「ロボットに表情をつけることは出来ないから透明のデザインにした」と語っているが、その視覚効果は抜群だ。
 ロボット映画を観る時に、映像作家がロボットの喜怒哀楽をどう表現しているかをチェックしてみるのも楽しみ方のひとつだ。

 「A.I」は、愛という感情をインプットされた少年型次世代ロボット・デイヴィッドの物語。
 デイヴィッドはある母親のもとに引き取られる。母親の息子は不治の病に冒され治療法が見つかるまで冷凍保存されている。デイヴィッドは息子の代わりなのだ。しかもデイヴィッドは母親を永遠に愛し続けるようにプログラムされている。
 しかし、息子が冷凍保存から甦ると、デイヴィッドは邪魔者になり捨てられてしまう。そんなデイヴィッドがプログラムどおり、母親を愛し続けられるかが物語の焦点になる。つらい旅をする出イヴィッド。
 氷河期を迎え人類が絶滅した2000年後、デイヴィッドは発見される。
 デイヴィッドがどんな感情を描いているか?

 この様に映画では様々なロボットが登場する。描かれているロボットはいずれも人間の反面教師である。ロボットから忘れていた物を学ぶこともあれば、ロボットの姿を通して人間の恐ろしさを垣間見ることもある。

★追記
 ロボットの行動原理「ロボット工学の三原則」は次の3点。
1.ロボットは人間に危害を加えてはならない。
2.ロボットは人間から与えられた命令に従わなくてはならない。
3.ロボットは第1、第2原則に違反しない場合に限り、自己を守らなければならない。
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下北サンデーズ 最終回

2006年09月08日 | その他ドラマ
 最終回。
 物語はマイナーからメジャーへ。しかしメジャーに居場所を見出せなくてマイナーに戻ってくるゆいか(上戸彩)の話。

 ここで描かれているマイナーがよくてメジャーがダメだという価値感はどうだろうか?
 今はマイナーもメジャー、どちらがいい、どちらが優れているという時代ではない。どちらにもいい所があり、悪い所があるというのが今の価値観だ。
 もし、マイナーがいいということを強く主張するのであれば、サンデーズの凄さをもっと描かなくてはならないが、今までの話ではサンデーズの芝居がどんなに凄いか伝わってこない。あるいはマイナーで培われたゆいかの芝居がメジャーで「凄さ」を見せなければならないが、それも描かれていない。(ゆいかは「もう一度やらせて下さい」というだけである)
 描かれたのはテレビドラマを即席で作るディレクターの酷さ。
 類型的。
 この演出シーンを真剣にテレビドラマを作っているスタッフ・役者さんが見たら、怒るのではないか?

 それはこの作品を作っているスタッフにも突きつけられる問題でもある。
 自分たちはテレビドラマというものをどう考えているのか?
 もし、ここで描かれているように否定的であるなら、ゆいかと同じように他の表現世界に行くべきであろうし、テレビドラマに誇りをもっているなら、マイナー上がりのゆいかをへこませる様なメジャーの試練があるべきである。
 中途半端。上っ面だけで描いている。
 テレビドラマを否定するという物語を描いてしまったがゆえに、自らの「魂」のなさを露呈してしまった。
 恐らくスタッフがこのドラマを作った理由は、下北沢・劇団という素材が新鮮だからというぐらいのものだろう。
 考えてみると、描かれていたラーメン屋の「ロックの魂」も本多さんを始めとする下北沢の「演劇人の魂」も薄っぺらだった。
 何も伝わって来ない。
 何も残らない。
 恐らく本気でロックをやっている人、芝居をやっている人は、この描かれ方を見て怒るだろう。
 そして視聴者もバカじゃない。
 低い視聴率。打ち切り。
 製作者に「魂」のない作品は誰も見ないのだ。
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ラッシュライフ 伊坂幸太郎

2006年09月07日 | 小説
 新潮文庫の100冊を読む。
 その第2弾は「ラッシュライフ」伊坂幸太郎。

 新潮文庫の100冊の紹介文はこう書かれている。
「未来は誰にもわからない。だから「今」を思い切り生きるんだ」
「父の自殺の衝撃から立ち直れない青年。職を失い家族にも見捨てられた中年男。失意のふたりは、自分でも気づかぬまま殺人事件に巻き込まれる。そこにクールな泥棒、殺人を企む女、歩くバラバラ死体までが登場。絶妙な偶然によって結びつけられた彼らを待つスリリングな展開、そしてその先に開ける思いがけない未来とは。絶望から希望へのあざやかすぎるドンデン返しに瞠目の、傑作ミステリー」

 この紹介文のとおり物語は、次の5エピソードで進行し、それぞれのエピソードが関連し絡み合っていく。

1.金で買えない物はないと思っている画廊のオーナーの戸田と新進の女性画家・志奈子。
2.空き巣のプロフェッショナル黒澤。
3.ある宗教団体の教祖が神であることを証明するために、その死体を切断する河原崎と塚本。
4.不倫相手と共謀して、不倫相手の妻を殺そうとする京子。
5.リストラされて野良犬の老犬と共に街をさすらう豊田。

 それはまさによくできたパズルのようだ。
 ネタバレになるので詳しくは書けないが、例えば不倫相手の妻を殺そうとする京子のエピソード。
 彼女とその不倫相手は車で殺しにいく途中、誤って人をはねてしまう。
 京子は事件を隠滅するため、死体をトランクに乗せて走る。
 ところがこの死体が怖い。
 走っているとトランクから飛び出すし、ある時にはバラバラに切断されてトランクから現れる。
 挙げ句の果てには、トランクから這いだしてくる。

 この死体の事件は決してオカルトが原因ではない。
 こんなことが起こるのにもちゃんとした現実的理屈がある。
 並行して描かれる他のエピソードとも関連している。

 その他にもこんなエピソードの交錯がなされる。

 泥棒の黒澤は河原崎の抱えている死体をエレベーターまで運ぶのを手伝う。黒澤はそれを死体ではなく、前後不覚の酔っぱらいだと思っている。
 リストラされた豊田は郵便局に強盗に入るが、銃を構えると郵便局員が職場放棄していっせいに逃げ出す。普通は金庫の金を渡したり、通報の努力をするだろうと思うが、それをしない。そして、それをしない理由は実は別の所にある。

 まさにジグソーパズル。
 パズルの一片を入れると意味や絵が見えてくるように、小説のエピソード・一文が組み合わされて、ひとつの意味や物語が現れてくる。
 そのエピソード・一文は個別では意味を持たないが、全体の中で見ると意味を持ってくる。
 面白い小説形式だ。
 映画では群像劇という手法があるが、作者の伊坂氏は「小説でしかできない群像劇をやりたかった」という。

 すなわち、具体的にはこうだ。
 先程も述べた泥棒の黒澤が死体を運ぶ河原崎に遭遇するシーン。 

「隣人と顔を合わせるのははじめてで、思わず『隣の黒澤です』と間の抜けた自己紹介をしてしまった。若い男だった。二十代だろう。青白い顔をしていえて、夜通し酒でも飲んでいたのか、具合も悪そうだった。(中略)青年の方も驚いた顔をしていた。しばらく考える間があって、『そうだ、このドアを支えていてくれませんか?』と言ってきた。ドア? と首を傾げる。『友人が飲み過ぎちゃって、下まで背負っていかなくちゃいけないんです』青年は怯えているようだった。『このドア、手を離すとすぐに閉まっちゃうので、だから。支えてくれると助かるんですが』黒澤は肩をすくめた。無言のまま、言われるとおりにドアを支える」

 青白い顔をしている青年は河原崎だが、小説は映像と違い、顔が見えないから読者には彼が死体を切断する河原崎とは分からない。
 青年が青白い顔をしているのは死体を運ぼうとしているからだが、黒澤の視点で読んでいる読者は二日酔いのせいで「青白い顔」をしていると額面どおり見てしまう。
 そして、ラストまで読んだ後に改めて読み直して見ると、青年が「怯えているようだった」のは、死体を運ぼうとしていたからだと分かる。
 まさに小説でしか描けないパズルだ。
 
 この作品は作者の伊坂氏がどの様に書いたかは分からないが、予測するに最初に5つの短編小説のプランがあったのではないか。現にこの作品で書かれた5つのエピソードにはそれぞれオチがついている。
 伊坂氏はこの5つの短編をパズルのように再構成して、ひとつの世界を作った。
 それにより物語が錯綜して、さらに面白い世界が生まれた。

 小説は過去、様々な表現形式を模索してきたが、この作品もそのひとつ。
 そして形式が作品を面白くする。
 形式がテーマをインパクトのあるものにする。

 これからも小説は様々な新しい形式を見せてくれるだろう。
 楽しみだ。
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結婚できない男 第10回

2006年09月06日 | 恋愛ドラマ
「男とか女とか意識しないで、仕事だけでつき合える。そういう便利で都合のいい奴は、お前以外に他にいないんだ」

 ヘッドハンティングされて他の会社に行こうとする摩耶(高島礼子)に信介(阿部寛)が言った言葉。
 この言葉を額面どおりにとらえるか、いつもの無器用さで本音を言えていないととらえるか、難しい所だ。
 恐らくその両方なのだろう。
 自分にとって摩耶がどんな存在なのか?
 仕事の良きパートナーなのか?恋人なのか?
 自分の気持ちを信介は理解できていない。決めかねている。
 あるいはこんな考え方もできる。
 もし仕事のパートナー以上であると摩耶に言ってしまえば、摩耶は誰も入れたことのない信介の場所に入ってくる。
 摩耶は自分にとってかけがえのない存在だと信介は思っているが、自分の場所に入ってくるのを許すまでの存在ではない。
 何かを得れば、何かを失う。
 しかし、信介は両方失いたくない。
 それが愛の告白でない「そういう便利で都合のいい奴は、お前以外に他にいないんだ」というせりふになった。
 あるいは夏美(夏川結衣)のこと。
 信介の中では、夏美もまだ恋愛の対象となっていないだろうが、ここで摩耶を受け入れてしまえば、夏美を失うことになる。
 信介自身は意識していないだろうが、それが愛の告白を躊躇わせた。
 信介はすべてを失いたくない子供なのだ。

 それは彼の対人関係力にも現れている。
 夫婦のもめ事を調整できなかった様に、信介の対人関係力は「未熟」だ。
 信介の対人関係力で通用するのは、犬のケンちゃん。
 それ以上の存在になると信介には、すべて不可解なのだろう。
 それゆえ、これまで信介は人間に傷つけられてきたし、自分の世界を作り心をガードしてきた。
 子供の信介は、この事態にどう対処していいかわからない。

 さて、そんな信介の言葉を受け入れて、転職を断った摩耶。
 摩耶のスタンスは、「恋愛」から「母性」に代わった。
 というか自分の気持ちが母性であることに気がついた。
 カーナビの指示では右折するところを信介の言葉を信じて直進した摩耶。結局信介の言っていた道は出来ておらず、通行止め。
 そこで摩耶は言う。
「でも、こういうあなたのこと怒れないのよね~」
 これは母性。
 その他にも摩耶は様々な無器用な信介を目撃する。
 千円札を入れても戻ってくる自動販売機と格闘する信介。
 祖母が亡くなった摩耶に「お大事に」と言ってしまう信介。
 これらの姿を見て、「無器用な恋人」「放っておけない子供」と見るかは、大きな分かれめ。
 その無器用さにときめくか、守ってあげたいと思うかは大きな分かれめ。
 そして決定的だったのが、信介の無器用な引きとめの言葉。
 摩耶はあまりにも子供っぽい引きとめの言葉に母親の役割で行こうと決心した様だ。

 今回の「結婚できない男」はかなり複雑な人の心情を描いた。
 良き仕事のパートナーなのか恋人なのかがわからない男。
 恋人として関わっていいのか、母親として関わっていいのかわからない女。
 よく「友達」と「恋人」の境目はどこかという問いかけがなされるが、今回はそれをドラマにした。
 1時間という時間では描ききれず、言葉足らずの感じもあったが。

 さて、残るは夏美。(次回はみちるの話の様だが)
 摩耶は「あなたには伝えておきたいと思って」と転職をめぐる信介との顛末を報告した。
 これは「あなたはどうするの?」という問いかけ。
 夏美の忠告には「また忠告ですか?」と言いながら、耳を傾けるようになった信介。
 信介は夏美を頼り、受け入れるようになってきた。
 一方、夏美も。
 みちるが信介の母親に摩耶のことを紹介して心穏やかでない様子。
 「あの人(摩耶)はあなたのことが好きです」と言った時の悲痛な顔。

 この心のガードの固いふたりはどの様にして結びつくのか?
 このままだと時間切れ、結びつかない気もしてきた。
コメント (4)
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枯葉の寝床 森茉莉

2006年09月05日 | 小説
 厚木街道の外れ、地面が枯葉で埋まった森の中にその家はあった。
 家の主人はギラン・ド・ロシュフコオ。
 耽美主義者。三十八歳。
 南フランスの貴族の父と日本人の給仕女を母に持つ彼は父の莫大な遺産を継ぎ、仏文の助教授・寝台小説の作家として生活をしている。
 そんなギランの恋人はレオ。身は細く締まり、敏捷な体つき。
 年齢は十七、十八だが、少年のような顔立ちをしていて魔性の美しさを持っている。

 森茉莉の小説「枯葉の寝床」は日本における耽美小説の傑作として名高い作品である。
 主人公のギランは恋人のレオを「美神と悪魔の愛児」、「自分を破滅の向こうに連れていくもの」と考え、受け入れている。ギランはレオ魅せられ、その美に焼き尽くされてもいいと考えているのだ。
 そして、物語はギランの破滅に向かっていく様を書き綴っていくことで進行していく。
 情事の後、ギランは浴室でレオの体を洗いながら考えている。
「まだ、秘密はないね」
 ギランはレオを自分だけのものにしておきたいと思うのだが、恋人の成長を止めることはできない。少年の体は青年に変化し、その体から立ち上る色香はギランの情欲に以前より増した火をつける。
 それはギラン以外の人間も同じだった。
レオはギランが学会で家を空けた時、同じ性情を持つ者が集まるクラブ「アルジェ」に足を踏み入れる。そこで灼けた様な黒い皮膚の大きな男、オリヴィオに見つめられるのだ。この男に見つめられてレオは得体の知れぬ戦慄、恐怖を感じるが、一方でどこか惹かれるものを感じる。レオの中に眠る魔性が危険な男オリヴィオと共振したのだ。
 数日後、レオはオリヴィオの車にふらふらと乗り、ヘロイン中毒のこの男に鞭打たれ抱かれる。そして、学会から戻ってきたギランはレオに起こった変化に気づくのだ。
「レオの中の、マジヒズムがめざめている」
 レオを見て、ギランはまだ「心は獲られていない」と分析するが、嫉妬の気持ちを否定することができない。
 そして、以前から抱いていたある予感も。
 レオの中のマゾヒズムが完全に現れた時、レオは自分のもとを離れていってしまうだろうという予感だ。
 ギランは「レオの肉体の魅惑の盃を滴もあまさず飲み干してやろう」という欲望を持って、レオを激しく抱く。
 しかし、ギランは「オリヴイオの様な錯乱者になり得ない」人間であり、レオを鞭打つことに何の快楽も見出すことができない。そこでギランは考える。
「鞭打つことが出来なければ、レオは自分を捨ててオリヴィオのもとに走ってしまうだろう。レオを自分の手もとにおいておくためには……、レオを殺すしかない」

 この様に「枯葉の寝床」は、魔性の美に魅入られた男の心の葛藤を耽美という言葉がふさわしい、美しい文体で描いている。
 「円蓋の屋根」「葡萄酒の樽に植えた月桂樹」「樫の寝台」「桃花心木(マホガニイ)の分厚い扉」、「デニムの洋袴(ズボン)」「栗茶の外套(オーヴアー)」など、描かれた舞台装置、小道具、衣装はすべて美麗なイメージを想起させるものであり、ベッドシーンも次のように魅惑的である。
「ギランの腕は器用にレオの体を下に抱き込んだ。斑の禿鷹は、窓から飛び込んだ小鳥を、肉慾(ヴォリユプテ)の爪の下に抑えつけたのだ」
「麻薬常用者のオリヴィオは、昼の間は、濁った目を見開いている男である。獲物を前にしてオリヴィオは強力なヘロインを打つ。ヘロインに脳のどこかを犯された男は、少年の獲物に立ち向かうだけで生命の火を燃やしていた」

 美しい世界を作り上げることに情熱を傾けて来た作者・森茉莉。
 その美の世界はアルコール度の高い強烈な酒だ。
 飲めばクラクラするかもしれないが、たまには酔って現実を忘れてみるのもいいかもしれない。
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右門捕物帖 佐々木味津三

2006年09月04日 | 短編小説
 むっつり右門こと近藤右門最初の事件が「南蛮幽霊」。

 桜の季節。奉行所で芝居の出し物をしている時にある岡っ引きが殺された。
 芝居は「加藤清正の虎退治」。
 殺された岡っ引きは虎の役をやっていて、役柄では槍に刺されて死ぬのだが、その槍が何と本物だった。
 刺した加藤清正は実は正体不明の人間。
 清正をやる予定だった与力は眠らされて、その犯人にとって代わられた。

 この捜査に乗り出したのが、右門。
 無口ゆえむっつり右門を渾名されている彼だったが、前後して起きた様々な事件を関連づけ、犯人を追い込んでいく。
 ひとつは三百両の富くじを眠らされて奪われた町人の事件。
 もうひとつは河原で侍がさらわれる事件。
 いずれも眠らされるという点で、共通している。
 侍がさらわれる三番目の事件も屈強な侍がさらわれるのは、眠らされたからではないかと右門は推理するのだ。
 そして浮かび上がるのは、島原の乱に起因する一団。
 異なる事象を結びつけて事件の全体像を創り上げていくのは、探偵の捜査手法の王道だが、この「右門捕物帖」でも踏襲されている。

 さて、この「右門捕物帖」で面白いのは、そのキャラクター作りだ。
 右門は無口。
 この右門を書いた作家・佐々木味津三は「旗本退屈男」も書いているが、早乙女主水之介を表す言葉は「退屈」。
 いずれもひとつの言葉で、キャラクターを表現している。
 大衆小説の主人公で重要なのは、そのキャラクター性だが、「無口」「退屈」という言葉を選んだ佐々木味津三にセンスを感じる。

 作品は作家の反映。
 作品が作家を物語るものであるとすれば、佐々木味津三は、無口で人生を斜に構えた人物だったのではないか?
 評論家の縄田一男氏は、こう分析している。
「純文学の書き手として出発しながら、自らの志を封じ、家庭の事情で大衆作家へと転じなければならなかった佐々木味津三の、正に「黙して語らず」といった心情がこめられていたはずである」
「こう考えると、痛快極まりない『右門捕物帖』の背後に、右門の捜査方法同様、搦め手からしか自己の文学の可能性を追求できなかった作者の苦悩を世も取るのも、あながち、穿ちすぎとはいえないのではないだろうか」
 確かに大衆文学という舞台を前にして無口にならざるを得なかった思いを感じる。
 「大衆文学という舞台」と言うことで言えば、右門が登場する最初のシーンは奉行所の芝居の舞台を見ているというものである。
 人生を斜に構えた早乙女主水にも、純文学に挫折してあらゆることに悲観的な作者の姿を読み取れる。
 その文体もそうだ。
「右門捕物帖」は落語の様な語り文体で書かれている。
 例えば、右門登場のシーン。
「なぜ彼が近藤右門という立派な姓名がありながら、あまり人聞きのよろしくないむっつり右門なぞというそんな渾名をつけられたかと言うに、実に彼が世にも珍しい黙り屋であったからでした。全く珍しいほどの黙り屋で、去年の八月に同心となってこの方いまだに只の一口も口を利かないと言うのですから、寧ろ唖の右門とでも言った方が至当な位でした」
 この講談のような語り口調の文体。口述筆記?
 佐々木味津三は「大衆文学はこんな文体で書かれるべきもの」と高をくくっていたと考えるのは考えすぎであろうか?

 縄田氏の分析どおりだとすれば、「右門捕物帖」は、純文学作家になれなかった作者の怨念が書かせた作品。
 だが、そんな怨念こそが作品に魂を与え、パワーを与えることがある。
 作者と作品の関係というのは面白い。
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マイ★ボス マイ★ヒーロー 第8話 

2006年09月03日 | 学園・青春ドラマ
 27がひとつになる。
 27番目のキモロンゲくんが参加していなくて、連れに行ったり(強制連行)したりして。
 そして文化祭。
 27がひとつになった。
 よくあるモチーフ、よくあるテーマだが、設定が面白くしている。
 「ギャルサー」もそうだったが、この枠の作品は、ある意味使い古されたモチーフ・テーマを新鮮なものに料理して見せるのがうまい。

 さて、うまい料理にはその他の食材が必要だ。
 その食材はこんな感じ。

1.真喜男(長瀬智也)はクラスメイトの名を全員覚えていた。
 ライブの練習の時、真喜男は3年A組のメンバーの名を呼んで、演奏でよかった点をひとりひとりに言った。以前はその他、大勢だったメンバーの名をすべて言えた。
 それは3年A組が「自分の組」になったから。
 この進歩、変化。
 もっとも桜小路(手越祐也)くんだけは、相変わらず「桜なんとか」だけれども。
2.ボスとしての成長。
 「27人まとめ上げるのも、5千人をまとめ上げるのも同じだ」という真喜男。
 受験、たるい、格好悪い、様々な価値観を持つ27人をまとめ上げる大変さを知った真喜男。
 それは弟の台頭で内部抗争の起こっている関東鋭牙会でも同じ。
 人をまとめ上げるのは力だけでないことを知った真喜男は立派なボスになっていくだろう。
3.バースデーパーティ
 ライブでは真喜男が失敗。
 そのせいで賞を取れなかったことを謝る真喜男。
 だが、クラスメイトたちにとって優勝などは関係なかった様。
 卒業前に大切な楽しい体験をさせてもらった真喜男に感謝。
 それをバースデーケーキ(28本ローソクが立っている)で表した。
 号泣の真喜男。
4.恋人・友人の協力
 真喜男の言われクラスメイトとして関わっていくことにしたひかり(新垣結衣)。そのひかりは早速、「学園祭に協力するよ」と言ってくれた。
 和弥(田中聖)は真喜男そのもの。
 星野くんら(若葉竜也)を脅して参加させた。
 南先生(香椎由宇)は、くじけそうになる真喜男を叱咤激励、フォローする。
 半ば妄想も交えて。

 この様にして作られている「マイ★ボス マイ★ヒーロー」。
 調味料であるディティルも効いている。
・真喜男の家にやってきた桜なんとかくん。
 彼に組員を見られそうになって、和は吹き矢で対抗!おまけに壁がスライド。
・目安箱への投書から文化祭の出し物を決める真喜男。
 しかし、殆どは否定的な投書。
 真喜男は前向きになり、投書の頭文字を組み合わせて音楽をやることに決定。
・譜面の♯は黒井の「井」。
 おまけに真喜男は半音上げるのを実演。
・マッキーの秘密。
 体育の時一緒に着替えない。ブランド物の財布持ってるのに弟は働いてる。好きなのにひかりをふった。
・人の身体は何万もの細胞、遺伝子で出来ていることを学んだ真喜男。
 空想で具体的にイメージ。
 おまけに手足の様に働いてくれる和のことを、すでに自分の一部と認識。 

 さて、最終回に向かって動き出した「マイ★ボス マイ★ヒーロー」。
 組同士の抗争に学園が巻き込まれていくようだ。
 真喜男、桜小路、ひかり、南先生らがどんなリアクションをしていくか見えない。
 最終的には「卒業」「友情」ということで収まるだろうが、その間に彼らがどんなリアクションをするか?
 そして真喜男。
 卒業して、ヤクザというものをどう捉えるか?
 その辺も楽しみだ。
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死ぬまでにしたい10のこと

2006年09月02日 | 洋画
 あと2ヶ月の命……。
 ガンを宣告されたアンが死ぬまでにしようと決めたことはこんなことだ。

 1.娘たちに毎日「愛してる」と言う。
 2.娘たちの気に入る新しいママを見つける。
 3.娘たちが18歳になるまで毎年贈る誕生日のメッセージを録音する。
 4.家族でビーチへ行く。
 5.好きなだけお酒とタバコを楽しむ。
 6.思っていることを話す。
 7.夫以外の男の人とつきあってみる。
 8.誰かが私と恋におちるよう誘惑する。
 9.刑務所にいるパパに会いに行く。
 10.爪とヘアスタイルを変える。

 私たちは様々なしがらみを抱えて生きている。
 そのしがらみゆえに小さな冒険すらできずにいる。
 私たちは、とりあえず目の前の仕事や約束をこなして生きている。
 それゆえに自分が死ぬべき存在であることを忘れ、毎日を流されて生きている。

 しかし実際には、今という一つ一つの瞬間を自分の手で輝く瞬間に変えなければ何も起こらない。
 それをこの作品のアンは私たちに教えてくれる。
 彼女は一秒たりとも手を抜かず、家族にはもちろん自分自身にも力いっぱいの愛を注いだことで、100年生きても味わえない人生の喜びに出会えたのだ。

 1.娘たちに毎日「愛してる」と言う。
 2.娘たちの気に入る新しいママを見つける。
 3.娘たちが18歳になるまで毎年贈る誕生日のメッセージを録音する。

 この3つの目標には泣ける。
 「愛している」と言う時、アンはどんな気持ちで言ったのだろう?
 メッセージを録音する時、アンはどんな気持ちだったのだろう?
 18歳になる娘の姿を見ることのできない苦しみ・哀しみ。
 そして、新しいママが見つかった時の気持ちはどんな気持ちだったのだろう?
 子供たちを見つめてくれる存在ができたことへの安心と、
 子供たちが自分以外を見つめる存在ができたことへの苦しみ・哀しみ。

 感情豊かな作品だ。
 ドラマで描かれる感情は複雑でなければならない。
 喜びや哀しみといった感情ひとつを描くだけでは大きな感動は得られない。
 この作品の「新しいママ」ができた時の様に「喜び」と「哀しみ」の感情が入り交じったものを描けた時に大きな感動を得られる。

 また、この作品の「瞬間瞬間を一生懸命生きよう」というメッセージでは感動できないが、「喜び」「哀しみ」という感情では涙できる。
 「瞬間瞬間を一生懸命生きよう」はある意味正論。
 しかし、そうしたくてもなかなか出来ないのが現実。
 反論もあるだろう。
 論理では人は感動できない。
 人の気持ちが感動を作る。
 この作品は、ドラマづくりのお手本でもある。
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魔術はささやく 宮部みゆき

2006年09月01日 | 小説
 まったく関連しない3人の女性の事件が結びつく。
 死んだのは加藤文恵、三田敦子、菅野洋子。
 探偵役はひとりの男子高校生・日下守。
 育てられている叔父の運転するタクシーが女性をひいてしまった。
 女性は菅野洋子。
 洋子は信号を無視して自分から叔父のタクシーに飛び込んできた様だ。
 そして謎の電話。
 「菅野洋子を殺してくれてありがとう」
 守は叔父の無実を晴らすために調べを始めた。
 そして洋子のことを調べていくうちに洋子が死んだことと加藤文恵、三田敦子の死に関係があることに気づく。
 3人は「恋人商法」と呼ばれる詐欺まがいの行為を行っていた。
 その詐欺のことを乗せた雑誌「情報チャンネル」に彼女たちのことが掲載されていた。
 犯人はこの詐欺にあった被害者ではないか?
 しかし加藤文恵、三田敦子の死はいずれも自殺。洋子は交通事故だ。

 宮部みゆき作「魔術はささやく」は次のふたつの謎から成り立っている。
1.3人の女性の死を繋ぐ第三者(犯人)の存在。
2.女性の死が自殺や事故であること。
 この謎を解くために守は動く。
 ネタバレになるので詳しくは書かないが、
 犯人はやはり恋人商法の詐欺に引っかかった被害者の関係者、
 3人を死に追いやったのは「魔術」だ。
 犯人は他人を意のままに操ることのできる魔術を使う。
 その魔術とはいかなるものか?
 犯行の動機や探偵役の男の子の動きは従来の推理小説に類似したものであるが、この「魔術」のトリックがこの作品を斬新なものにしている。

 また、この作品のテーマは「人の心」だ。
 人の心の弱さを描いている。
 人との繋がりを求めて「恋人商法」に引っかかってしまう人間。
 日常の単調な仕事が嫌で「恋人商法」に手を染めてしまう人間。
 被害者も加害者も弱さを抱えた人間だ。

 そんな人間を登場人物たちはこんなふうに非難するが。
 まずは詐欺の被害者に対して。
「客になった男たちは、腹立たしいほど無邪気だった」
「あんなふうに心が通い合い、あんな幸せなことが本当にあると、彼らは思っている」
「和子は、きれいになれる、やせられる、毎日が楽しくなる、と無心に思い込んでいるあの娘たちのような女性を、突然現れて腕にすがってくる女性がなんの下心も抱いていないと信じてしまえるほど、日常の生活と仕事に追われているマジメな男たちを、心底憎んでいるのだった。彼女には、もうどんな種類の幻想もなくなっているから」
 次に加害者に対して。
「いつの世にも真の悪人というものが確かに存在するということだ。しかし、彼らは絶対数が少ない。本当の問題は。その彼らについていく者たちなのだよ」
 犯人は、洋子ら「恋人商法」に手を染めた人間を真の悪人の追随者だと言う。
「悪質な金融犯罪も、それを成り立たせ、実行し、蔓延させてさせているのは、もっと大勢の追随者たちなのだ。そこで何が行われ、自分がどういう役割を果たしているのか十分に承知しながら、いざというときには逃げ道を探せる者たちだ。悪意はなかった、知らなかった、自分も騙されていた、事情があってどうしても金が欲しかった、私も被害者だ。言い訳、言い訳、果てしない言い訳だ」

 そしてその弱さを抱えている人間は詐欺の被害者・加害者だけではない。
 守の父親は勤めている役所の金を横領した。
 守に様々な助けの手を差し伸べる大手企業の副社長は、実は守に対して後ろめたいことがある。その後ろめたさから逃げるために、自己満足のために守を助けている。
 守の同級生は脅迫されていじめに加担した。
 盗癖のある少女、麻薬常習者は守のアルバイトする店の中で事件を起こす。
 みんな弱い。
 そして守。

 ラスト、守は犯人に心を試される。
 自分の弱さに負けてしまえば、守は犯人の意図した犯罪を犯してしまうことになる。
 人の弱さを描くことに作品のほとんどを使い、ラスト、主人公の心の強さを試す。
 この辺りが小説として巧みだ。
 単なる推理小説にしていない。
 テーマがしっかりしている。
 犯人の使う「魔術」のトリック自体も「人の心の弱さ」に起因しているというのも面白い。
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