Zooey's Diary

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「スタンリーのお弁当箱」

2015年02月03日 | 映画


以前公開されて見損なっていた、ミニシアター系映画。
監督アモール・グプテ、2011年インド映画。

ムンバイに住むスタンリーは元気で利発な少年だが、学校にお弁当を持って来ない。
お母さんが今デリーに行っていないからなどと言って
昼食の時間になると、水を飲んだり外に出たりしてごまかしている。
それを知った級友たちが、自分たちの弁当を分け与えるのだが
意地悪な教師が「弁当を持ってこないなら学校に来るな」と怒鳴りつける。
そんな中、踊りが上手なスタンリーは学校代表としてダンス大会に出ることになって…

舞台となる"holly family shool"というのは、英語を日常的に使ったり、
クリスマスを祝ったりするので、おそらくインドでは限られた人が行く私立校か。
何故スタンリーの顔に痣があるのか、何故お弁当を持って来られないのか、
謎が明かされないままに話は進みます。
意地悪教師が退散し、ダンス大会での活躍でスタンリーが拍手喝采を浴びてハッピーエンドかと思いきや、
その後ラスト10分で話は急展開します。



インド映画に興味を持つ人がそうそういるとも思えないのでネタバレしますが
スタンリーは事故で親を亡くし、強欲な叔父さんに引き取られて
飲食店で下働きさせられていたのです。
働きが悪いといって殴られ、食べ物もろくに与えられず、台所の片隅で眠る日々。
でも彼はそのことを誰にも言わず、また学校に通い続ける。
そしてインドでの就労児童は五千万人以上というエンドロールが。

スタンリーはどうして本当のことを友だちや先生に言わないのか。
あんなに顔に痣があったり、毎日の弁当を持って来られないのに
どうして教師たちは気に留めたり、スタンリーの家を訪ねたりはしないのか。
色々と謎は残りますが、インドの旅行で気がついたことが少々あります。



現地人のガイド、アリ氏と1週間近く行動を共にしたので(しかも客は我々夫婦だけ)
私はインドに関する様々なことを根掘り葉掘り訪ね、
また彼は根気よく答えてくれたのですが…
自国のマイナス面や恥部に関することについては
どうも彼はあまり話したがらないのです。
それが段々と分かって、私もそうしたことについては訊きにくくなったのでした。

それはたまたま彼の気質であったのかもしれませんが
もしかしたら、インド人全体の気質に繋がるものもあるのかもしれない。
ガイド氏だけではなく、飛行機で隣に座ったインド人や
ホテルで話したインド人も、みんなそんな感じだったのです。
そういう人には失礼なのであまり訊けないことでも
ガイド氏にはいいだろうと様々に訊いたのですが、やはり嫌がられました。
この映画の冒頭で、"special thanks~"のクレジットが延々と続いて驚きました。
〇〇学校の校長、理事長、関係者、保護者などへの謝辞が数分も続くのです。
もしかしたら、この作品を作ったことで各方面で色々な抗議や反対が起きて
それに対する気遣いであったのかもしれない。
スタンリーが本当のことを言いたがらないのも、
子どもなりの彼の矜持、インド人としての気質であったのかもしれないとも
ちらりと思ったのでした。

「スタンリーのお弁当箱」 http://stanley-cinema.com/
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「深い河」

2015年02月01日 | 


20年以上前に読んだ遠藤周作の「深い河」を
インドから帰って読み直してみました。
「愛を求めて人生の意味を求め、人は母なる河に向き合う」
文庫本のキャッチコピー。毎日芸術賞受賞作。

5人の日本人が、それぞれの理由を抱えてインドへのツアーに参加します。
妻を突然亡くして、インドでのその転生を信じて探し求める男。
学生時代にもてあそんで捨てた男がインドで修業していると聞いた女。
太平洋戦争中ビルマで戦って死んでいった親友を弔いたい男。
それぞれの思惑を抱えて行ったインドでは、混沌の世界の中をガンジス河が
何もかもを飲み込むように、ゆったりと流れていた…

美津子という女が、昔読んだ時にはどうにも好きになれませんでした。
贅沢なマンションに住み、ボーイフレンドを何人も引き連れて遊ぶ女子大生。
学友から馬鹿にされながらも神を信じる大津という野暮ったい学生を
ほんの遊び心でからかってみる。
「神さま、あの人をあなたから奪ってみましょうか」
それだけの理由で大津を誘惑し、ちょっと遊んでボロ布のように捨てる。

しかし、その捨てた男と美津子は、人生の節目ごとに関わることになるのです。
大津という男は、子どもの頃からいじめられ、大人になっても周りと上手くやっていくことができない。
神に助けを求め一心に祈り神学性となり、
卒業後はフランスに渡って神父になろうとするがそこでも拒絶され、
遂にはインドのバラナシで死体運びのような役割に身を落とすのですが…
終盤、ガンジス河の畔でケンカに巻き込まれた大津が死にかけているところで
美津子は思わず叫ぶ。
「本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎのために一生を棒にふって。
あなたが玉ねぎの真似をしたからって、この憎しみとエゴイズムしかない世の中が
変わる筈はないじゃないの。あなたはあっちこっちで追い出され、挙句の果て、
首を折って、死人の担架で運ばれて。
あなたは結局は無力だったじゃないの」
(「玉ねぎ」というのは二人が使う隠語で「神さま」のことです)

若い時は、この傲慢な美津子が嫌いで、大津が哀れでならなかった。
しかし今読むと、美津子の方が可哀想に思えてくる。
大津は確かに気の毒な人生を送ったのだけど、しかし彼は結局彼の思うところの
人生を全うしたのではないか。
それに引きかえ、残された美津子は、この先も信じるものもなく頼れるものもなく、
大津の無様な(見た目は)最期を脳裏から消し去ることもできず、
救いのないつらい余生をおくるのではないか。
そして美津子という女を、私も含めて神を信じない、多くの日本人の象徴として
著者は描きたかったのではないかと。

この小説の終章、十三章は「彼は醜く威厳もなく」というのです。
本の内容全体を象徴しているようなタイトルです。

「深い河」 http://tinyurl.com/cerp3kq
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