日本紀略 / 応和二年(962)十一月廿七日辛未条
「廿七日辛未 (中略) 今日 綿調布等を以て東西京(の困窮民)に賑給す」
天皇は村上天皇。『後撰和歌集』の編纂、『清涼記』の著者とも、平安文化を開花させ「天暦の治」として後世景仰される。この「天暦の治」もこうした天皇の貧民へ賑給する等の陰徳あって花開いたといえましょう。 . . . 本文を読む
「本朝皇胤紹運録」(第九十九代後亀山天皇)「応永四年(1397)十一月二十七日尊号および兵仗を辞退、その後御出家、法名金剛心」
後亀山天皇は第九十九代・南朝第四代。南朝最後の天皇。後村上天皇(第97代天皇南朝第2代天皇)の皇子。在位1383〜1392。足利義満に応じ、神器を北朝の後小松天皇に伝えて譲位、南北朝合一。 . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・16/27
観音經功徳鈔下目録
一、三十三身の総釋の事
二、祇陀末利の事
三、三十三身の義の事
四、十九説法の事、同依報をも化し玉ふ事、布施の事。
五、禅那維那の姫の事
六、観音罪人の苦に代り玉ふ事、千眼の事。
七、聖観音の事
八、摂折二門の事
九、感應同時の事、定業轉不轉の事。
十、慈童仙人と成る事、持地の十法の事。
十一、自在の業 . . . 本文を読む
業に「三世四業」「因果四報」の種類がある。「三世四業」には 順現業・順次業・順後業・順不定業がある。・順現業とは、現世に善悪業因をなして現世にその賞罰を受けるもの。・順次業とは、現世に善悪業因をなして次の世にその賞罰を受けるもの。・順後業とは、現世に善悪業因をなして三回目以降の世にその賞罰を受けるもの。・順不定業とは、つよい善悪を造ってないため、報いを受ける時期が定まっていないもの。「因果四報(結 . . . 本文を読む
三代実録 / 元慶五年(881)十一月廿六日庚午条
「廿六日庚午 皇太后、太上天皇の奉為に 染殿宮に於いて 周忌の御斎会を設け 諸大寺の高僧を延べて法華経を講ずること五日訖を限る。 親王公卿及び五位已上は畢く会す。 京中の貧窮者を鴨河辺に召集し 之に賑給す。」
・天皇は陽成天皇。皇太后は清和天皇后藤原高子。太上天皇は清和天皇で元慶四年に薨じています。
・昔は皇族は . . . 本文を読む
「日本書紀・天武九年680十一月」「丁酉(26日)、天皇、病したまふ。因以て百僧を度せしむ。俄に癒へたまふ。」
丁度、11月12日には皇后不豫で薬師寺の建立を始め皇后が平癒されたばかりでした。この薬師寺建立と百僧度と相まって天皇の不豫は俄かに癒えたのかもしれません。 . . . 本文を読む
三島由紀夫の檄文われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白狀態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を瀆してゆくのを、齒嚙みをしながら見てゐなければならなか . . . 本文を読む
『吾妻鏡』によれば、1253年(建長5年)11月25日、建長寺の落慶供養が行われています。時頼が創建し蘭渓道隆を初代住職として招いています。
『吾妻鏡』です。「建長五年(1253)十一月小廿五日庚子。霰降る。辰尅以後小雨潅ぐ。建長寺供養也。丈六の地藏菩薩を以て中尊と爲す。又、同像千躰を安置す。相州殊に精誠を凝ら令め給ふ。去る 建長三年十一月八日 事始有りて、已に造り畢之間、今日梵 . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・15/27
十五、 女に七と三との苦ある事。乗仙僧都の事。
輔正記(法華経文句輔正記)に云、女に七の苦あり。一には形悪く生れ付たる事を苦に思ふなり。二には嫉妬の苦なり。夫が余所へ行くは心もとなく思ふなり。三、嫁姑のなかの悪しき苦なり。四には愚痴してさしてなきことを悔やむ苦なり。五にはものをいふ事多くしてもずのさへずる如くなり。我が . . . 本文を読む
以前NHKBsの「大戦国史」で、戦国時代にスペイン等がキリスト教によりアジア諸国を植民地化した姿が改めて浮き彫りにされていました。日本は秀吉・家康等の禁教令に依り辛うじてキリスト教から日本を護ることができましたが、明治維新以降は宗教的には戦国時代と同様の危険な状況が現出され、敗戦でさらに一層混迷の度を深めています。皇室にまで深くキリスト教が入り込んできています。
日本人は無宗教を表明することをイ . . . 本文を読む
今日は高野山八傑の一人尚祚入寂の日。尚祚は高野山心南院の学匠。高野山八傑の一人。字は覺體、または覺禅。気象俊徹、神手卓異、夙に覺海の室に入り、密教の奥義に到達。正智院道範と互に稟授請益する所あり。後に心南院を剏建して化を啓き、阿弥陀二像を安じ、密誦の外兼ねて浄行を修す。嘗て弥陀三昧を修するに行道衆忽ちに一人を増す。乃ち弥陀像なり。師曰く、二像の中いずれぞや、一像即ち一像を指す。爾来一尊を指佛といひ . . . 本文を読む
梁塵秘抄口伝「我(後白河法皇)、永暦元年(1160)十月十七日より精進を始めて、法印覺讚を先達にして、二十三日(熊野詣に)進発しき。二十五日むまやどの宿に、為保左衛門尉にてありしに、それがぐしたりし先達のゆめに此度参らせ給ふはうれしけれど、ふる哥をたばぬこそはおしけれと、見たる由を申す。元より王子にてはする事をばすなるに、御哥などはあるべき物をなどいふ者有しかど、餘り下臈がちにて、けんぞにやなど云 . . . 本文を読む
「吾妻鏡」
「建久三年(1192)十一月小廿五日甲午。白雲飛び散り。午以後霽に屬す。
早旦、 熊谷次郎直實 与 久下權守直光、 御前に於て一决を遂ぐ。是、武藏國熊谷と久下の境相論の事也。直實武勇に於て者、一人當千之名を馳せると雖も、對决に至りて者、再往知十之才に不足。頗に御不審を貽すに依て、將軍家、度々尋問令め給ふ事有り。時に直實申して云はく。『此の事、 梶原平三景時、直光を引 . . . 本文を読む