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江戸時代の生活 ⑬ -新田開発ー

2010年03月23日 11時21分00秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の主な産業は、農業です。
戦国時代から、各大名が国力を高めるため、米の増産、農地開拓に取り組んできました。
が、江戸時代になると人口の増加に伴い、食糧が不足し、江戸幕府も各藩の奨励のもと、湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われました。

それにより、江戸時代初期に全国で1800万石だった石高は、江戸時代中期には2500万石、後期には3000万石となりました。
特に、それまで畿内などに比べて開発が遅れていた東北や関東などでも新田開発が活発化して農地が大きく増えました。

     今はほとんど見かけなくなりました”水車”です。
        F8号         この絵の水車は、湯布院の民芸村にありました。              

その背景には、測量技術の向上があります。
水田の場合、多くの水の供給が必要で、灌漑用水の整備が欠かせません。
戦国時代は、一定の傾斜がなければ水田開拓は不可能であったものが、江戸時代に入ると平地に開拓された水田への水供給が可能になり、排水路を整備して水田化が行われました。

一時期は、無謀な新田開発の乱発が行われ、それを幕府が規制したこともあったのですが、享保の改革では、開発者の利益保証を条件に商人などの民間による開発を奨励しました。

小規模な開拓は農民が自力で行いましたが、大規模な開発で村を新設するような新田開発も多くあり、、開発を申し出た者に対して勘定奉行などが許可をだして、工事が行われ、新田開発後は、数年間年貢が免除される特権もありました。

開発には、官営の新田(幕府が許可を出すものや藩が主導で行うものがあり)と民営の新田開発があります。

民営開発にも色々な開発があります。
土豪開発新田といって、武士を捨てた土豪が資金を出し、周辺農民が開発したものや、村請新田は、村全体で資金と労力を出し合うものや、町人請負新田は、都会の富豪が、小作農を雇って耕させる新田などがあります。

大阪近辺では、淀川水系の治水、大和川付け替え工事など大阪湾岸の河口の浅瀬で商人による新田開発が行われました。
大阪平野の多くは、水辺から陸地になった場所が多く、鴻池新田は今も地名として残っています。

  江戸期は失敗し続けた印旛沼

大型の開拓は、越後の紫雲寺潟、濃尾平野の木曽川河口が有名ですが、失敗も多くありました。
失敗例として、下総国の印旛沼や手賀沼が挙げられますが、ここは何度も挑戦しますが、失敗し続け、時の老中(田沼意次や水野忠邦ら)などが失脚する原因の一つと言われ、いずれも昭和の戦後になるまでは、本格的な開拓・農地化は出来ませんでした。