熊本城は、中世に千葉城、隈本城が築かれ、その後その地に、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、加藤清正が熊本城を築きました。
日本三大名城の一つで「清正流(せいしょうりゆう)」と呼ばれる石垣が有名で、その他にも加藤清正ならではの色々な工夫があります。
「銀杏城」という名前の由来は、場内に植えられているイチョウの木があることです。
これは、籠城する時のために加藤清正が植えたと言われています。
2009年12月初旬に訪れた時の写真です。 天守から見下ろすイチョウの木
加藤清正が、朝鮮出兵の時、食糧不足に苦しんだ経験を生かしているそうです。
「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」と言い伝えられており、それが明治10年の西南戦争だと言われていますが、この銀杏の木は、雄木なので実はならないそうで、これらは、後世の人が作った俗説と考えられます。
本丸御殿と天守閣の間に、イチョウの木の黄金色がひと際目立ちました。
「熊本城」の歴史を見てきたイチョウの木は、「銀杏城」と呼ばれるに相応しく堂々としていました。
他に、食糧の確保としては、清正は城内の建物の土塀にカンピヨウを塗りこめ、畳床には食用になる里芋を用いていると言われていますが・・・・
水についても、城内には120ヶ所の井戸を掘り、籠城に備えていました。
この他にも清正ならではのものがあります。
本丸御殿には「昭君之間」と呼ばれる部屋があり、一説によると、豊臣家の有事の際、秀頼を密かに匿うために造られた部屋であると伝えられています。
表面上は、家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を表したものと伝えられています。
「昭君之間」
この「昭君之間」は、2007年(平成19年)に築城400年に際して、本丸御殿を始め、元太鼓櫓、奉行丸の塀、南大手門などの建造物を数年かけて復元され、その本丸御殿内に造られています。
なお、熊本城が所在する熊本城公園の敷地は国の土地で、熊本市に無償貸与されて管理、整備をしています。