先日、白浜に行っていましたので, このブログの投稿が出来ませんでした。
白浜の内容は、次の機会に譲るとして、まずは、福井・金沢の旅の続きを・・・・・・
丸岡城は、既存の天守のある12の城の一つです。
このことについては、以前に述べましたので、下記を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/3364f56e61b18f5be1388ec93692bf17
既存の天守のある12の城の中でも、この丸岡城は、日本最古だそうです。
今から430年前の天正3年(1575年)、織田信長は越前の一向一揆を平定するために大軍を派遣し、丸岡の東北方面にあった豊原寺の寺坊を焼き払い、この恩賞として柴田勝家に越前の国を与え、北の庄に城を築きます。
勝家は、甥の勝豊に築かたのが、この丸岡城です。
別名は、霞ケ城とも云われていますが、その由来については、今シリーズで掲載しています城の別名シリーズで書きます。
現在最古と呼ばれていますが、現在の天守は1948年(昭和23年)の福井地震によって倒壊し、1955年(昭和30年)に修理再建されたものです。
屋根が全部石瓦で葺かれているのは、全国でも稀な特徴で、鯱鉾(しゃちほこ)も石製で、天守の下には、福井地震で落下した鯱が置かれています。
天守から丸岡市内を望む 石の鯱鉾
独立式望楼型二重三階の特殊な建築法で、重厚な城を支える天井の梁により、階段の位置の関係で階段は非常に急で、今は上からひもを垂らし、それを掴んで登って行くようになっています。
既存の天守の階段は、全て勾配がきつく、良く昔の人は、袴で登ったり、甲冑を着ての、この階段の登り降りしたと思うと、昔の人は、足腰が強いと感心せざるを得ません。
同じ望楼式天守でも、後の時代の彦根城や姫路城などの層塔式天守閣と比較すると、いかにも城郭建築の初期のものであるのが伺えられます。
石落し 急こう配の階段には綱が・・・・
丸岡城で有名なのが、「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」 の書簡です。
徳川家康譜代第一の功臣の本多作左衛門が陣中から妻あての書簡で、短く、簡素にして要件を伝えているとして知られています。
文中のお仙とは、嫡子の仙千代のことで、後の6代目の丸岡城主 本多成重のことだそうです。
お城の下の公園は、紅葉で真っ赤に染まっていました・・・・
この他に、このお城に伝えられている伝説があります。
”人柱のお静”とか”大蛇の出る井戸”とか”樹齢500年のタブの木”とかありますが、その話は、また別の機会に書きます。