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日本の城、もう一つの名前 ⑦ 松本城=深志城、烏城

2013年01月19日 10時41分25秒 | 城郭への展望

松本の地は、古くから「深志」と呼ばれ、室町時代の初め、信濃守護の小笠原貞宗が、今の松本城のやや南方に居を構え、深志に城を築きました。

戦国時代に、小笠原氏を滅ぼした武田信玄が、深志城を拡張し、これが後の松本城の基礎になりました。
天正18年、豊臣秀吉が小笠原の北條氏を滅ぼすと徳川氏は関東へ移封となり、そこに入封してきたのが旧徳川家康の家臣の石川教正で、現在の松本城を完成させました。

 


そこで今でも地元では「深志城」と呼ばれていましたが、もう一つの別名として「烏城」とも云われています。
その姿が真っ黒であることから「烏城」と付けられたのですが、岡山城も「烏城」と呼ばれています。
でも、一般的には松本城は「からすじょう」、岡山城は「うじょう」と言うように使い分けられています。

  
                                  月見櫓の壁の白さが目立ちます。


なぜ、壁に黒い板で覆ったのでしょうか・・・・

この板は下見板と云われ、板に黒い漆を塗っています。
壁の2/3を下見板で覆っているのですが、当時は、上から下まで白い漆喰だけでは雨にあたる下の部分が壊れやすくなるので、板を使う必要があったのです。

秀吉の大阪城も真っ黒い板で覆っていました。
理由は、雨で崩れにくくすると同時に、黒い板の上に黄金を張り付け模様を付け、黄金色を目立たせ、権威を表していました。

しかし、徳川家康の時代には、新しい白漆喰を開発し、真っ白い江戸城を建て、新しい時代の到来を現したのではないでしょうか?
天守は、戦う砦から、権威を示す意味をもつようになりました。

松本城の月見櫓は、白漆喰の壁で作られています。
ここにも、泰平の世になって徳川の世の中が来たことを示すため増築したのかも知れません。
1600年以降、江戸時代の天守はほとんど白漆喰を用いています。



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