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日本の城、もう一つの名前 ⑧ -会津若松城=黒川城ー

2013年02月18日 10時39分20秒 | 城郭への展望

NHKの大河ドラマの「八重の桜」は、会津藩の国元のお城は会津若松城で、幕末には官軍の砲撃によって、お城は大きく傾きます。

大政奉還の舞台となった二条城とともに、江戸時代の幕引きとなったのが、この会津若松城と言えるでしょう。

このお城の落城とともに江戸時代は終わりを告げるのです。
その意味においても、この会津若松城は、日本の歴史上需要なお城の一つです。


本来は、若松城ですが、地元では一般的に鶴ケ城といい、地元以外では、会津若松城と呼ばれることが多く、文献上は黒川城とか会津城とされています。

国の史跡としては、若松城祉の名称で指定されています。

以上の他、会津鶴が城とも云われ、多くの名前を持っています。

  
     復元・整備された鶴が城              生々しい砲弾跡が残る鶴が城の走り長屋


若松城は、至徳元年(1384年)葦名直盛が造った「東黒川館」が始まりと言われ、後に会津領主の葦名盛氏が改築し、現在の城閣の原型を築き、その時の名前は「黒川城」でした。

 文禄元年(1592年)、黒川城に入った蒲生氏郷は、大大名として相応しい近世城郭に改造し城下町を整備し、町の名前も「黒川」から「若松」へと改名しました。

この「若松」という名前は、氏郷の出身地、現在の滋賀県蒲生郡日野町にある蒲生氏の氏神の参道にあった「若松の社」に由来し、同じく領土であった松阪の「松」という文字も由来していると言われています。

文禄2年(1593年)望楼型7重(5重5階地下2階)の天守が完成し、名を「鶴ケ城」に改められました。
なお、望楼型7重と言いながら実際は5重なのですが、比喩言葉で7重とは、幾重にも重なるという意味があります。

 会津藩の悲劇などと言われるのは、幕末、松平容保が京都守護職に就任した時から始まります。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発、やがて戦火は会津へと移りました
城下は戦火に見舞われ、白虎隊の悲劇が生まれ、約1ヶ月に及ぶ籠城戦を耐え抜いた鶴が城は奥州一の名城として、天下に知られました。

その名城も明治政府陸軍省の命により、明治7年に取り壊されました。
その後、旧藩士らの尽力により、陸軍省から払い下げられ、昭和9年には国から史跡として指定され、昭和40年に、昔の姿そのままに復元されました。

  
   現在、復元された鶴が城               戊辰戦争後の鶴が城には、鯱はありません。


その姿に、不明なところがただ1点あります。
現在の天守閣には、鯱が上げられていますが、明治初年の古写真には鯱がありません。
これを理由に平成22年(2010年)の改修工事に合わせて、鯱を取り外すべきという意見がありました。
江戸時代の絵図には鯱が描かれているものもあり、正確なところは不明だそうです。



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