2010年5月20日の当ブログには、今でも多くのアクセスがあります。
それは、「高松城天守閣の再建は・・・」と言うものです。
その後の状況は分かりませんが、関心が高いと言うことなのでしょう。
お城の再建を望む声は、なにも高松城だけではなく、各地で観光だけではなく、地域おこしや郷土を見直すという観点から要望が湧いています。
が、再建となると文化財保護法の規制や資金の問題など多くの問題があり、簡単にいかないようです。
月見楼 玉藻公園の碑
高松城の別名は「玉藻城」と言われています。
万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と読んだことから、高松城周辺の海域が”玉藻の浦”と呼ばれたことに由来するとされています。
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587年)讃岐一国の領主となった生駒親正によって、”野原”と呼ばれた港町に築かれました。
現在の遺構は、江戸初期、徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものです。
明治以降の都市化によって現在は、海側に新しい道路が通り、ほとんどの建物は取り壊されました。最盛期に比べ現在は約1/8の8万㎡に減少しました。
城の北東部にある月見櫓 再建が取りざたされている天守台
城内にある重要文化財の被雲閣は当時の1/3に。 海側に道路が出来、城が削られました。 上記、4つの写真は、JRホテルクレメント高松から撮影しました。
城郭の形式は輪郭式平城で本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、三重に堀が回されていました。
かっては、城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠、中濠、内濠の全てに海水が引き込まれ、城内に軍船が出入り出来るようになっており、日本初の”海城”です。
なお、高松で名高い栗林公園は、頼重の隠居所として城の南西に造築されたものです。
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