去る11月21日に丸岡城を訪れた時のブログは、下記をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/7422ddfa82939c654a7868811e254809
ここでは、その丸岡城の別名 霞ケ城について書きます。
まず、お城の所在地は、福井県坂井市丸岡町霞町1丁目ですが、勿論、その地名は後から付けられたもので、別名は地名からのものではありません。
天正三年(1575年)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。
豊原は一向一揆の本拠地であったため、築城後もこの丸岡城に、一揆の残党が押し掛けてくることもしばしばありました。
その度に、井戸の中から大蛇が表れて、城に”かすみ”をかけて城の危機を救ったという伝説から「霞ヶ城」と呼ばれたそうです。
現在も春先には、この地には”かすみ”におおわれるそうです。
この井戸から大蛇が・・・・・ 今の鯱は、石ではありません。木彫り銅版張りです。
この古いお城には、他にも色々と言い伝えられていることがあります。
”日本一短い手紙”については、11月21日の訪問記にも書きました。
なお”石の鯱”については、もとは木彫り銅版張りであったものを昭和15年~17年の修理の際、戦争中と言うこともあり、銅版の入手が困難でやむなく、全国でも珍しい石製に造り変えたものだそうです。
そして、昭和23年の福井大地震により落下しそのまま残っています。
なお、現在の天守閣にのっている鯱は、元の木彫り銅板張りに復元したものです。
「人柱お静」の慰霊碑 昔のツイッターでしょうか・・・・・
もう一つ伝説があります。
「人柱お静」というもので、柴田勝豊が築城の際、天守閣の石垣を何度積んでも崩れるので人柱を入れることに進言するものがありました。
人柱に選ばれたのが、2人の子供を抱えていた”お静”でした。
お静は、2人の子供を侍に取り立ててもらうことを条件に、人柱となりました。
が、その後 勝豊が他に移封され、お静の子供は侍に取り立てられることはありませんでした。
お静は、これを恨み、毎年、春には堀に溢れる豪雨が降り、これはお静のたたりとして、小さな墓を建て霊を慰めたということです。
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