丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66m)を利用し、縄張りは、ほぼ四角形で、亀山の回りを堀で囲む、輪郭式の平山城で、亀山に位置するため、亀山城とも云われています。
また、別名、蓬莱城ともいわれ、蓬莱とは、中国の神仙思想にもとずく、不老長寿の仙人が済むと言う謂れから、この城にも末永かれとの願いが込められて、呼ばれているのか、真偽のほどは分かりませんが・・・・・
この城の特徴は、石垣にあり、穏やかであるが荒々しい野面積みと端正な算木積みの土台から、独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっており、山麓から山頂まで4重に重ねられ、高さ60mあり、この高さは日本一で、三の丸だけでも22mあります。
石垣の高さ、美しさから「日本100名城」に選ばれ、現存する12の天守を持つ城の一つで、400年の歴史を誇っています。
元はと言えば、この讃岐の国には、高松城があり、1国1城の考えがある江戸時代からして少し事情があります。
室町時代の初期、管領細川頼之の重臣 奈良元安が、この地に砦を築いたことから始まります。
慶長2年(1597年) 豊臣時代、生駒親正が、讃岐17万石を与えられ、高松城の支城として築きます。
その5年後(1602年)に城郭が完成しますが、関ヶ原後の徳川の天下が定まると、一国一城令が発せられますが、これは、必ずしも”一つの国に一つの城”と言うことではなく、”一人の大名に一つの城”と言うことだったのですが、讃岐の国は生駒氏のみの領地であるため、丸亀城は一旦、廃城になります。
ところが、生駒騒動というお家騒動を起こしたため、生駒氏は幕府ににらまれ、出羽の国に転封され、次に着た大名 山崎氏は、讃岐半国を与えられ、山崎氏は、この丸亀に城を再建し、現在に至っています。
そこで、讃岐の国は、高松城を本城とする松平頼重が12万石で入封し、讃岐の国は、高松城と丸亀城の2城が存在することとなりました。
なお、2011年2月15日付けの当ブログには、丸亀城を訪れた時のブログをアップしています。
内容的に重複しているところもありますが、よろしかったら、見てください。
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