問題を持ち込まないこと。スイッチ・オフできる習慣を身につける
こと。私にとってそれは本を読むことなの。
エンヤ
17 May 1961-
Wait for the sun
Watching the sky
Black as a crow
Night passes by
Taking the stars
So far away
Everything flows
Here comes another new day
Ah, ah, ah, ah, ah, ah, ah
Into the wind
I throw the night
Silver and gold
Turn into light
I'm on the road
I know the way
Everything flows
Here comes another new day
※ Chorus
Alleluia, alle-alle alleluia
Alleluia, alleluia
Alleluia, alle-alle alleluia
Alleluia, alleluia
Ah, ah, ah, ah, ah, ah, ah
” Echoes in Rain " Music & Word
Enya( compser ), Roma Ryan ( lyricist )
彼女がエンヤの新曲が話題で聴きたいと、急に車の中で話す。どんな曲?と応えると、
わからないという。それじゃ買ったら? と問うと、そこまでしなくてもいいよと応え
る。そな会話の2日後の今夜、ネット検索して確認。レンタルで可能かを確認。なんど
も、「オリノコ・フロウ」「オンリー・タイム」などの大ヒット曲で知られる、アイル
ランド出身・世界最高峰の歌姫エンヤが、全世界待望の新作『ダーク・スカイ・アイラ
ンド』が昨年11月20日に全世界同時リリースを決定。06年『雪と氷の旋律』以来、
7年ぶり7枚枚目となるオリジナル・アルバムだという。ユーチューブなど検索し明日、
サンミュージックで手に入れることにする。
ところで、上の「エコーズ・イン・レイン」は、行進曲リズムのオスティナート(執拗
反復)とピッチカート(擦弦)楽器の弦を指ではじいて音を出す技法)で軽快な曲に仕上
がっている。ベースは嬰ヘ短調とし、E5とB2ノートの2オクターブのエンヤのヴォ
ーカルで、自宅での長い感情の旅路を歌う。
● 折々の読書 『法然の編集力』 6 松岡 正剛 著
【目次】
第一部 法然の選択思想をよむ
忘れられた仏教者
六字名号の伴/宗教は「編集」されてきた/法然に吹く風
専修念仏への道
父の遺言/浄土思想との出会い/末法を生きる/法然の読暦法ノ専修念仏の確
信/山から町へ/乱想の凡夫として
法然のパサージュ
兼実の「仰せ/「選択」とは何か/法然のブラウザー/トプリテラシーとオラ
リティ
「選択」の波紋
南都北嶺の逆襲/浄土でつながる……多重な相互選択/親鸞と空也
第二部 絵伝と写真が語る法然ドラマ
法然誕の地ノ突然の夜討ちノ時田の遺言/比叡山入山∠宝ヶ池越しに比叡山
を望む/18歳での遁世/浄土信仰の象徴/一向念仏則に帰す/吉水での説
法/念仏宛洋の地/善導との夢中対面/大原問答/大原問答の地/九条兼実
の帰依ノ朗婉の計画ご弟fの死罪/遊女教化/法然の臨終/法然の眠る場所
第三部 特別対談 松岡正則×町田宗鳳
大震災を経て/辺境から生まれる希望/仏教の土着化/日本仏教の系譜/仏
教とイメージ/法然の引き算/仏教を再読/「悪人」とは誰か/仏教におけ
る死
第一部 法然の選択思想をよむ
● 法然のパサージュ
兼実の「仰せ」
すでに名前だけはあげておきましたが、大原の勝林院に集った憎の一人に重源が
いました。重源の名は、治承四年(1180)の南部焼き打ちによって焼失した東
大寺の再建のための勧進職に就いたことでよく知られています。ところが事実は、
当初、その依頼は法然にあったと伝えられていまり。しかし、比叡山から下りてま
もない法然はこれを断り、代わりに重源が任じられたのです。
重源はプロデューサーとしての資質にとても長けていた人で、人仏殿の再建を宋
出身の建築家・陳和卿に任せたりしています。「天竺様」という新しい建築様式が
日本にもたらされたのは、重源による功績でした。よた、勧進のために六台の一輔
車を作って、都の中央から伸びる街道を走らせたのですが、なんと重源みずからも
それに乗ってい南無阿弥陀仏」を祢えていたといいます。重源は全体の構想を見抜
く力に長けつつも奇抜な発想もできるというような、日本には稀有なタイプの人で
した。
その重源が、まだ再建プロジェクトが進行中の東大寺に法然を招いて、浄土三部
経の講話をさせました。このとき法然は「私は善導和尚の書かれた書物を通して、
善導の意志を継ぐことを決めたのであって、私には相承血脈の法もなければ、面授
によって口訣された証拠もないのだ」と訪ったということになっています。
こういうことを南都仏教の大センターである収入寺でしゃべったのは、またまた
そうとう大胆なことでした。これは、「書物がわが師だ」と言っているようなもの
ですし、あなたがたは善導の『観経疏』にをちゃんと読んでないんですねという挑
戦にもなっています。とくに自分の信仰には相承血脈がないと公言したのは、大胆
ききわまりないもので、のちに南都の僧だちからこの点について逆襲を受けること
になります。
重源とともに、いやそれ以ヒにつ山ぃをドりた法然を詰るうえで欠かすことので
きない人物は、日記『玉葉』の著者で知られる九条兼実です。兼実は関白藤原忠通
の三男で、鎌倉開府以降も摂政や関白を務めた権力者でしたが、建七年(1196)
に失脚してしまいます。ちなみに『愚管抄』の天台座主慈円は兼実の弟です。
その失脚前の兼実が、文治五年(}一八九)に五七歳の法然を私邸に招きました。
黒衣無位の念仏僧をトップクラスの貴族が私邸に招いたのですから、これはたいへ
ん異例なことで、宮中でも画期的なことでした。おそらく大原問答の評判を聞いた
のだと思われます。
しかも兼実は、このあと法然から複数回にわたって授戒を受けているのです。加
えて、兼実の娘さんで後鳥羽天皇中宮の任子も受戒しました。これによって法然は
宮中に参内することになるのですが、周囲では法然のような身分の低い僧侶が宮中
に入るのはゆゆしきことだと非難する向きもあったようです。けれども兼実は平気
の平左のようで、『玉葉』にそのことを記して、「受戒は決して軽はずみなことで
はないし、身分の高い名僧だからといって近代の僧は戒律のことをまったくわかっ
ていない」とのべています。たいしたものです。
そのうち法然との縁を深めた兼実は、ぜひとも専修念仏の教えを著作にまとめて
ほしいと要請します。法然も最初はいささか渋ったようですが、結局は引き受けた。
そこで撰述されたのが『選択本願念仏集』です。つまり、この本は自主的に書かれ
たものではなく、九条兼実の「仰せ」がなければ目の目を見なかったのです。この
ようなかたちでの執筆は、栄西・目蓮・道九・親鸞などがそれぞれ自信のある著作
をのこしていった動機とは一線を両しています。
それに法然は、この本を自分で書いたわけではなかったのです。『法然上人行状
絵図』などによると、法然が話したものを弟子の安楽房遵西や真観房感西らが執筆
したとされています。むろん法然自身の口述が何日にもわたって続いたと思われま
すが、それなら自分で書けばよいものを、それをしなかったというのは、じつのと
ころは文章が苦手だったようなのです。これについては、のちに法然を痛烈に批判
した華厳密教僧の明恵も指摘しています。
もちろん生前の法然が書きものを何ひとつのこさなかった、というわけではあり
ません。法然が交わしたいくつかの手紙(当時はこれを『消自タとょんだ)もあり
ますし、法然が入滅の二日前にしたためた有名な「一枚起請文」もある。けれども、
本というかたちで法然が執筆したと確認できるようなものは、一点も残されていな
いのです。これはどういうことなのでしょうか。文章が苦手たったとも書がヘタだ
ったとも考えられますが、私は別な才能に艮けていたと想像しています。
第一には、きっと類いまれな読書フェティッシュだったのです。少年時代からあ
まりに読書が好きなため、本の中にこそアクチュアリティを感じとれるようになっ
たのだと思います。私はこういう人物を何人も知っています。第二には、話すこと
の天才だったのではないか。おしゃべりだというのではなくて、話すうちに集中力
が高まり、話せば話すほどに構想が浮かんでくるのです。むろん、こういう人物も
けっこういます。
しかし第三には、ここからが大事なことですが、本で読んだことと話していくこ
ととが、独特に重なりあい、その組み合わせのなかから新たな「読み替え」が生ま
れてくることを知っていたのだと思うのです。ということは第四に、そのことを文
章で綴るのがまどろっこしくて、むしろ次々に組み替えられていく新たな構想を、
自身で観照することに夢中になれるということなのです。これはきわめてヒューリ
スティック(仮説形成力)な異能性が高かったということでしょう。
ということだとすると、法然は大半のことがアクマの中で編集できただけではな
く、いくつかのキーコンセプトやキーフレーズによって、信仰的情報を組み立てな
おしていたということなのです。そのことは、永観の「往生拾因』に善導の『観経
疏』についての一心専念を発見すると、そこから善導のテキストに入ってこれを読
み替え、さらに弥陀の四八願のうちの第十八願との逢着をもって、一気に全体を組
み立てなおすということに、如実に見えてくることでした。
ひるがえって、『選択本願念仏集』では、法然は口述という方法をとって弟子た
ちに聞き書きをさせたわけですが、そこには、以上のような法然の思想編集力が躍
如したのであって、よくよく『選択本順念仏集』を私たちが読めば、その思考の組
み立ての跡が見えてくるはずなのです。少なくとも私には、そうした編集の飛躍と
交合が、そこかしこにあらわれているように感じます。このことについては、また
あとで論じます。
いずれにせよ、法然は兼実の願いを聞き入れました。それでも法然は『選択本願
念仏集』の末尾部分で、「このたび思いがけず仰せをいただいたが、お断りするこ
ともできず、未熟な私ではあるが念仏を説いた肝要な文を集め、それに解説を加え、
念仏の大切さを説き明かした。思えば恥知らずもはなはだしい」とちょっと謙遜し
ています。ここからも推測できるように、この撰述は法然と一門とによる乾坤一擲
の共同編集となりました。法然、六六歳のときのことでした。
「選択」とは何か
さて、あらためて強調しておきますが、『選択本願念仏集』は日本有数の編集的
仏教諭とでもいうべき書物です。法然が恩着せがましく教義を説くというよりも、
その「選択」と「編集」が、読む者を導いて「専修念仏」を照らし出すような構成
をとっています。そのみごとな手法を見るために、そもそも『選択本願念仏集』に
は何か書かれているのか、まずはその中身をざっと確認したいと思います。
法然は、まず最初に中国の道棹が書いた『安楽集』にもとづいて、仏教を「聖道
門」と「浄土門」とに分けています。そして、聖道門とは深遠難解な哲理による自
力修行をもって悟りをめざすものですから、末法の世に往生することを重視するの
ならば、浄土門に帰入すべきであると主張します。法然の議論の出発点がここにあ
ったことは、すでに大原問答のところでのべたとおりです。
道棹は七世紀初頭に曇鸞にインスパイアされて中国浄上教の門に入った傑僧で、
『観無量寿経』を二〇〇回講じ、一日に七万遍の念仏を称えたといわれます。小豆
で数をかぞえる「小豆念仏」も思いついた。ちなみに中国の浄土教は五世紀の慧遠
が白蓮社という念仏結社をつくったことから本格化して、曇鸞、道棹、善導、慧目
というふうに発展継承されました。
ついで、善導が著した『観経疏』には大いに注目すべきだということを何度も強
調します。このあたりから、だんだん引用も多くなってくる。そして、往生するた
めに必要な行を「正行」と「雑行」とに分類し、称名念仏の重要性をあきらかにし
ていきます。善導を引きながら「専ら往生経に依って行を行ずる者」を正行、「已
外の自余の諸善」を雑行と位置づけるのですが、正行のなかでも、とりわけ弥陀の
名号を称える念仏こそが「正定業」であるとします。この行に徹することで往生が
約束されるのは、「かの仏の願に順ずるが故」である、つまり阿弥陀の本願なのだ
という根拠でした。
さらに続けます。称名念仏による往生は、阿弥陀仏のいらっしやる極楽浄土に往
生したいという気持ちのもち方によっていて、それは「至誠心」「深心」「廻向発
願心」の三心であらわすことができるのだから、念仏行に徹するものは、その心を
もったうえでぃ恭敬修」「無余修」「無間修」「長時修」といった四修の法に臨む
べきであると解説します。そしてクライマックスでは、阿弥陀仏がどのような存在
であるかを存分に論じて、ついに「敬善」の可能性を説いていくのです。
ざっといえば『選択本願念仏集』の流れはこのようになっているのですが、その
流れはフラットではなく、法然は八万四千の法門からスタートして、往生の方法を
荒縄をなうように専修念仏へと収斂させていくのです。まことにもってみごとな選
択、卓抜な編集だと思います。
ではここで、『選択本願念仏集』に、いったいなぜ「選択」という言葉が冠せら
れているかという核心的な問題を考えてみようと思います。それは法然が気がつい
た「選択の相互作用」とはどういうものだったのか、ということです。そもそも専
修念仏が法然による革新的な選択だったのですが、その思想的根拠は「念仏こそが
阿弥陀仏の選択本願である」というものでした。ここでははやくも「選択」が二重
化あるいは三重化しているのです。
まず法蔵が四八頭をたて、その第十八順において阿弥陀仏がその名を称える者を
選択しています。ついでこの「弥陀の本願」を善導が『観無量寿経』の解釈で選択
しなおし、そこにフォーカスされた散善義としての念仏を、さらに法然がもともと
の「弥陀の本願」への照射をもって選択しているのです。これでもけっこうシンプ
ルに説明したのですが、じつはこれらのプロセスのなかだけでも「選択」は相互に
動きあっています。なかなかややこしい。ややこしいのではありますが、そこに法
然の真骨頂があるので、そこに分け入りたいと思います。
が、その前に法然のいう「選択」はどういう意昧なのか、それはどのような行為
ととらえればいいのか、そこを知ってもらいます。『無量寿経釈』にはこうありま
す。「選択とは、すなわちこれ取捨の義なり。いわく210億の諸仏の中において、
人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり」。きわめて
単純明快に定義づけられています。これを『選択本願念仏集』では次のように説明
します。
選択とは、すなわちこれ取捨の義なり。
いわく210億の諸仏の中において、人大の悪を捨て人大の善を取り、国土の
醜を捨て国土の好を取るなり。大阿弥陀経の選択の義かくのごとし。双巻経の意、
また選択の義あり。いわく210億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す。と云うこ
れなり。選択と摂取と、その言異なりといえども、その意これ同じ。しかれば不
清浄の行を捨てて清浄の行を取るなり。
(『選択本願念仏集』)
法然は『大阿弥陀経』や『双巻経』を引きあいに出しながら、みかけの言葉こそ
ちがって見えるけれど「選択」と「摂取」は同じ意味だと説明しています。これが
とりあえずの「選択」の意味です。ちなみに『大阿弥陀経』とは『無量寿経』の編
集異訳のことで、『双巻経』はその大衆バージョンの『無量寿経』であると考えて
ください。
法然が引用したいずれの文献でも、ほとんど同じ定義がされています。ありてい
にいえば、っ選択」とは「善」や「好」といった必要なものを選び取って「悪」や
「醜」といった不要なものを捨てることです。
しかしそんな程度のことが「選択」なら、あまりたいした意味ではないように思
われます。私たちが常日ごろおこなっている「選択」と何ひとつ変わらない。そう
計しがりたくなります。膨大な情報に取り囲まれている現代人にとって、何かを選
び取って、それと並立する何かを捨てるなどという選択は、日常茶飯です。パソコ
ンやケータイではそんな選択ばかりしています。
では、ほんとうにそうなのか。われわれはつねに適切な選択をしてきているので
しょうか。レストランで食事のメニューを選び、高校や大学や会社を選び、選挙で
は候補者を選んでいるけれど、それはどの程度の選択なのでしょうか。われわれは
そのつど何かを選び取っているようでいて、ひょっとすると根源的でクリティカル
な「選択」をしていないのかもしれないのです。
いや、選択していないことのほうがずっと多いともいうべきです。コンビニやス
ーパーの商品、書店に温れる書籍たち、ケータイで消したり点けたりしている情報、
数秒間に数百万も流れるツイッター情報……。われわれはこれらを総じて点検した
ことなど、一度もないのです。のみならず沖縄の基地や原発設置を選択したわけで
もないのです。そうだとすると、ほとんどの情報はすえおきのものであり、多くの
社会用品はデッドストックなのかもしれません。
では、このようなことを、いったいどのように考えればいいのでしょうか。法然
はどうしたかというと、目の前で父を殺されたのを目撃して以来、生と死のあいだ
にある出来事をどのように考えればいいかということを、仏教の教義のなかで選択
したかったのでした。
けれどもそれに向かってみると、生と死のあいだの出来事を徹底して考究したは
ずの経典や解釈書はあまりに膨大であり、しかも読んでいくうちに法然にひらめい
た直観や思索が、経文や解釈文のなかで変形させられてしまいます。もっとも大事
なところをつかまえて、その支点や視軸によって全体を読もうとしても、いつも何
かが歪んだり、逃げていってしまうのです。しかしながら法然は、そうした読書を
通してなんとか自分の思考が結着していく編集方法を模索します。そして、それに
は「選択すること」と「選択されること」の相互関係を発見することこそが必要だ
ということに気がつくのです。
これは選択作用を雲散霧消させないための「鍵と鍵穴」を思いだす作業に似てい
ました。こうしてあるとき、聖道門ではなくて浄土門の鍵や、定善ではなくて散善
の鍵が、阿弥陀の第Tハ願という鍵穴によって、ぴたりと選択的相互作用の関係を
維持してくれるだろうことを発見したのです。
法然の「選択」とは、さまざまな価値観をスクリーニングしながらエッセンシャ
ルにしていく過程であり、ひとつひとつがよりクリティカルになっていく方法のこ
となのです。こうして法然は何度も「選択的相互性」を重ねていくことで、また引
き算をしていくことで専修念仏に絞っていったのでした。それをあえて横文字で説
明するとすれば、コンデンセーションやダイジェストやコンプレッションであり、
またペネトレーションやパティキュラリゼーションだということになるかもしれま
せん。法然にはきっと「情報」の足し算と「本質」の引き算が同時にできる才能が
あったのだと思います。それが法然のという人の「編集力」なのです。
この項つづき
【ジャジーな風に吹かれてⅦ:カウント・ベイシー 】
『ベイシー・イン・ロンドン』は、後者の最高傑作の一枚。ベイシーのピアノが最小
の音符を使ってバンドをフル・スイングさせ、名だたるメンバーが次々に快調にソロ
展開。ジョー・ウィリアムスのダイナミックなボーカルを交えて饗宴はクライマック
スヘ。そこから「 Corner Pocket 」を今夜の一曲に選ぶ。