極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

はじめ良ければ半ば良し

2017年03月22日 | デジタル革命渦論

  

    

     56  孤独な旅人  /  火山旅(かざんりょう)  

                               

      ※ が楽しいものとなったのは近代になてからのことである。古代の
        人々にとって.旅は一大難事
であった。交通の不便、宿舎の不備も
        さることながら、見知らぬ土地、なじみのない人々の中
でたごひと
        り暮らす不安は、現代のわれわれには想像を絶するものがあった。
        旅舎を転々とする孤独な
旅人が象徴するものには、不安定な生活(
        転居、転職など)、孤独な生活、失恋などがある。こんな場合は無
        理をしてまで打開
しようとせず、あせることなく受け身で対処する
        ことだ。郷に入れば郷に従え
。しかも旅人が目的地を忘れないいよ
        うに、内心には自己の理想をしっかり守ってゆくのだ。人生
ば長い
        長い旅なのだから。

 

【量子ドット工学講座33:光子放出素子の製造技術】

次世代の高セキュリティ情報伝送・高速情報処理を実現に、量子情報技術の研究が進められている。
量子情報処理を固体素子によって実現の技術として量子ドット(QD)の応用
研究が進んでいる。
例えば、非特許文献1では Sk(Stranski-Krastanow)型自己形成量子ドットを用いた単一光子発生器
が記載されている。量子ドットは化学合成によって作製することもできる。例えば、非特許文献2
には化学合成によって作製された化学合成量子ドットの球対称性を高める合成方法について記載さ
れている。また、非特許文献3には、走査型プローブ顕微鏡SPM)によるリソグラフィーを用
いて量子ドットを設置するための凹部を作製し、量子ドットの位置を制御できることが記載されて

いる。



ところが、コンパクトで、十分な高効率、高指向性を備える光子放出素子を実現することができな
かった。非特許文献1のSK型自己形成量子ドットは、基板上に形成され、扁平な形状となるり、
基板に垂直な方向への対称性が著しく低い。また結晶成長速度差によって面内対称性が損なわれる
ことも多い。つまり、形状が非対称性な量子ドットは、量子もつれ合い状態の光子対を発生させる
ことができない
。量子もつれ合い状態の光子対とは、偏光の重ねあわせ状態にある光子対である。
扁平な形状のSK型自己形成量子ドットからは、特定の偏光を有する光しか得ることができない。
量子情報技術は、量子もつれ合い状態の光を礎に成り立っており、量子もつれ合い状態の光を得る
ことができないことは、実用化の妨げになる。

これに対し、例えば非特許文献2の化学合成量子ドットは、基板に拘束されない結晶成長をする。
このため、化学合成量子ドットは3次元的な対称性が高い。化学合成量子ドットは、主に、バイオ
研究用の蛍光マーカ(標識)等に利用されるが、化学合成量子ドットは発光明滅(ブリンキング)
現象が生じる。ブリンキング現象が生じるとは、量子ドットに励起光を加えた際に、量子ドットが
発光するか発光しないか不確定である。発光が不確定であることは、励起光を入射する入力に対す
る出力が不確定である。この不確定さは、量子コンピュータ等において出力結果の信用度を下げ、
量子情報処理技術の実用化を阻害する。

 Feb. 3, 2015

下図の新規考案は、量子ドットをメタマテリアルに対し所定の位置に配設し、発光の高速化、発光
効率の増大、ブリンキング現象の抑制、放射光の指向性等を高め、また、独自のSPMリソグラフ
ィーでた量子ドットの位置制御技術を利用し、メタマテリアルと量子ドットの位置関係をナノオー
ダーの精度で制御し、光子放出素子を実現する。
 

  JP 2017-55057 A 2017.3.16

【要約】

この光子放出素子は、半導体からなる基板1と、基板の一面または内部に設けられた量子ドット2
と、基板に対し平面視で量子ドットを囲み、延在方向に端部を有するメタマテリアル3と、を備え
る光子放出素子で、さらに量子ドットが、メタマテリアルによって囲まれる領域の中央に配置され
、同一平面上に存在する光子放出素子の構成/構造で、高効率、高指向性を備えるコンパクトな光
子放出素子を実現する方法を提案する。

※ 鍵語:メタマテリアル( meta-material)とは、光を含む電磁波に対して、自然界の物質には無
い振る舞いをする人工物質のこと。



ところで、走査プローブ顕微鏡に興味を抱いたのは95年ごろだった。当時は、生産技術に従事し
原子間力顕微鏡が登場して間もない頃で、バルク表面の分析などは電子顕微鏡での分析が主流で、
金属表面の微細な三次元的観測で、温度・湿度・ハーティクルなどと金属酸化物表面状態変遷を観
測したかったのだが、行く行くは、この装置技術を応用した新しい事業展開を意識し、流されるの
ではなく、新しい流れを作りたいと考えていた。21世紀に入りしばらくて、それは、新規事業の
媒体的産業領域を想定した「ネオコンバーテック創業論」として確立させることになる。装置的に
は3Dプリンタ、MEMS、ナノプリンタであり、前述した、走査型プローブ顕微鏡などとして結
実していく。広義の人工物質(メタマテリアル)の創生であり、それは、エネルギー領域において
は、オールソーラーシステムなどの自然エネルギーの導入拡大、医療領域にあっては再生医療とし
て、食品領域おいては人工食品などの前駆体として着実に顕在化してきている。流れを作り出すこ
と。太陽電池の導入はカーター米大統領時代に挑戦されているが頓挫しているように、それは容易
ならざることでもあるが、果敢に挑戦し、事業化に結びつける努力家(あるいは起業家)の勇気を
称えるものである。それは早すぎても、遅すぎてもだめである。流れが生まれれば、始め良ければ
半ば良し、終わり良ければすべて良し。それを見極め行動する努力、シャドーワークは決して見え
ぬものである。

    
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅰ部』  

   3.ただの物理的な反射に過ぎない 

   「君はこの家で育ったのか?」と私は尋ねた。
 「いや、おれ自身はここに長く往んだことはない。ときどき泊まりに米たくらいだ。あるいは夏
 休みなんかに避暑をかねて遊びに来たくらいだ。学校のこともあって、おれは母親と一緒に自分
 の家で育った。父は仕事をしていないときには東京にやってきて、おれたちと一緒に暮らした。
  それからまたここに戻って一人で仕事をした。おれが独立し、十年前に母が亡くなってからは、
 ずっと一人でここにこもって暮らしていた。ほとんど世捨て人みたいにして」

  その家の留守中の管理を任されていたという、近くに往む中年の女性もやってきて、いくつか
 かの実際的な説明をしてくれた。台所の設備の使い方とか、プロパン・ガスや灯油の注文のしか
 たとか、各種道具の置き場所とか、
ゴミ出しの場所と曜日とか。画家はかなりシンプルな独居生
 活
を送っていたらしく、使っていた機械・器具類は数少なかった。従ってレクチャーを受けてお
 か
なくてはならないようなこともあまりなかった。もし何かわからないことがあったらいつでも
 電
話をください、と彼女は言った(結局電話をかけたことは一度もなかったが)。

 「誰かに往んでいただけるととても助かります。誰も往んでいないと家も荒れますし、不用心で
 すから。それに人がいないとわかると、イノシシや猿が寄ってきますし」
 「イノシシや猿がちょくちょく出るんだよ。このへんは」と雨田が言った。
 「イノシシには気をつけてくださいね」とその女性は言った。「春にはタケノコを食べるために、
 よくこのあたりに出没するんです。とくに子供を育てている雌イノシシは気が立っていて危険で
 す。それからスズメバチもあぶないです。刺されて亡くなった人もいます。スズメバチは梅林に
 巣を作ることがあります」

  開放式の暖炉のついた比較的広い居間が、家の中心になっていた。居間の南西側に屋根付きの
 広々としたテラスかおり、北側には正方形のスタジオがあった。そのスタジオで画伯は絵を描い
 ていたのだ。居間の東側にはコンパクトな食堂付きの台所があり、浴室があった。そしてゆった
 りとした主寝室と、それよりは少し挟い客用の寝室があった。客用の寝室には書き物机が置かれ
 ていた。読書が好きな人であるらしく、本棚には数多くの古い書籍が詰まっていた。画伯はそこ
 を書斎として使っていたようだった。古い家屋のわりには清潔で、居心地は良さそうだったが、
 不思議なことに(あるいは不思議ではないのかもしかないが)、壁には絵がただの一枚もかかっ
 ていなかった。壁という壁はどれも、素っ気なく剥き出しのままたった。

  雨田政彦が言ったように、家具も電気器具も、食器も寝具も、生活に必要なものはだいたい揃
 
っていた。「身ひとつでくればいい」、そのとおりだった。暖炉のための薪も納屋の軒下にたっ
 ぶ
り積み上げてあった。家の中にテレビはなかったが(雨田の父親はテレビを憎んでいたという
 こ
とだ)、居間には立派なステレオ装置があった。スピーカーはタンノイの巨大なオートグラフ、
 
セパレート・アンプはマランツのオリジナル真空管だ。そしてアナログ・レコードの立派なコレ
 クションがあった。一見したところオペラのボックスものが多かった。

The Tannoy Autograph I

 「ここにはCDプレーヤーがないんだ」と雨田は言った。「なにしろ新しい道具がまるっきり嫌
 いな人でね。古くからあるものしか信用しない。もちろんインターネット環境なんてものは影も
 かたちもない。もし必要なら、町に降りていってインターネット・カフェを使うしかない」
  インターネットはとくに必要ないと思う、と私は言った。

 「もし世間の勤きを知りたければ、台所の棚にあるトランジスタ・ラジオでニュースを聴くしか
 ない。山の中だから電波の入り方はかなり悪いし、NHKの静岡局がなんとか聴けるくらいだけ
 ど、まあ何もないよりはましだろう」
 「世の中のことにそれほど興味はない」
 「それはいい。うちの父と話があいそうだ」
 「お父さんはオペラのファンなのか?」と私は雨田に尋ねた。

 「ああ、父は日本画の人だが、いつもオペラを聴きながら仕事をしていた。ウィーンに留学して
 いる頃、歌劇場に通い詰めていたらしい。おまえはオペラは聴くか?」
 「少しは」
 「おれはとてもだめだよ。オペラなんて長くて退屈なだけだ。そこに山ほど古いレコードかおる
 から、好きなだけ聴けばいい。父にはもう用のないものだから、おまえが聴いてくれればきっと
 喜ぶはずだ」
 「もう用がない?」
 「認知症が進んでいるからな。オペラとフライパンの違いだって、今ではもうわからないよ」
 「ウィーン? お父さんはウィーンで日本画の勉強をしていたのか?」
 「いや、いくらなんでも、ウィーンまで行って日本画の勉強をするような物好きな人間はいない。
 父はもともとは洋画をやっていたんだ。だからウィーンに留学した。当時はとてもモダンな油絵
 を描いていたんだよ。でも日本仁戻ってきてしばらくしてから、突然日本画に転向した。まあ、
 世間にちょくちょくあるケースだけどね。外国に出ることによって、民族的アイデンティティー
 に目覚めるというか」
 「そして成功した」

  雨田は小さく肩をすくめた。「世間的に見ればね。でも子供にしてみれば、ただの気むずかし
 いおっさんでしかない。絵を描くことしか順になく、やりたい放題好き放題に生きていた。今じ
 ゃもうその面影はないけどな」
 「今、いくつなんだ?」
 「九十二歳。若い頃はかなり派手に遊んだという話だ。詳しいことは知らないけど」
  私は礼を言った。「いろいろとありがとう。世話になった。今回のことはとても助かったよ」
 「ここは気に入ったか?」
 「ああ、しばらくここに住まわせてもらえるととてもありかたい」
 「それはいいけど、おれとしては、できればおまえとユズとの仲がうま座戻ることを祈っている
 よ」

  私はそれについてはとくに何も意見を言わなかった。雨田自身は結婚していない。バイセクシ
 ュアルだという噂を耳にしたことはあるが、真偽のほどはわからない。長いつきあいだが、そう
 いう話題には触れたことがない。

 「肖像画の仕事はまだ続けるのか?」と帰りぎわに雨田は私に尋ねた。
  肖像画を描く仕事をすっかり断った経緯を私は彼に説明した。
 「これからどうやって生活するんだ?」と雨田はエージェントと同じことを尋ねた。
  生活を切り詰めて、しばらくは貯金で食いつなぐ、と私はやはり同じ答えを返した。久しぷり
 に制約なく好きな結を描きたいという気持ちもあるし。

  「そいつはいい」と雨田は言った。「しばらく自分のやりたいようにやってみればいい。でも、
 もしいやじゃなければ、アルバイトに絵の先生をやってみるつもりはないか。小田原駅前にカル
 チャー・スクールみたいなのがあって、そこに絵の描き方を教える教室があるんだ。主に子供た
 ちを対象にしているが、成人向け市民教室みたいなものも併設している。デッサンと水彩だけで、
 油絵はやらない。そのスクールを経営している人が父の知り合いでね、商業主義的なところはあ
 まりなくて、かなり良心的にやっている。だけど先生のなり手がいなくて困っているんだ。もし
 おまえが手伝ってくれたらきっと喜ぶだろう。謝礼は大したものじゃないけど、それでも少しは
 生活の足しになるはずだ。週に二曰くらいクラスを持てばいいだけだし、それはどの負担にはな
 らないと思う」

 The Shining
  

 「でも、絵の描き方を教えたことなんてないし、水彩画のこともよく知らない」
 「簡単だよ」と彼は言った。「何も専門家を養成するわけじゃない。教えるのはごく基本的なこ
 とだけだ。そんなコツは一日やればすぐにつかめる。とくに子供に絵を教えるというのは、こっ
 ちにとってもなかなか刺激になるしな。それにこんなところに一人で往むつもりなら、週に何日
 かは下に降りて、無理にでも人と接触を持たないと頭が変になっちゃうぜ。『シャイニング』み
 たいになったら困るだろう」
 
  雨田はジャック・ニコルソンの顔真似をした。彼には昔から物真似の才能があった。

  私は笑った。「やってみてもいい。うまくいくかどうかは心からないけど」
 「おれの方から先方に連絡を入れておく」と彼は言った。
  それから私は雨田と一緒に、国道沿いのトョタの中古車センターに行って、そこでカローラの
 ワゴンを現金一括払いで買い求めた。その日から私の小田原の山の上での一人暮らしが始まった。
 ニケ月近くただ移動に終始する生活があり、そのあとに動きのない、ぴたりと静止した生活がや
 ってきた。極端な転換だ。

  その翌週から私は小田原駅前のカルチャー・スクールの絵画教室で、水曜日と金曜日にクラス
 を受け持つことになった。最初に簡単な面接があったが、雨田の紹介ということですぐに採用さ
 れた。成人を教えるクラスが二回、そして金曜日にはそれに加えて子供たちのクラスをひとつ受
 け持つことになった。子供たちのグループを教えることに私はすぐに馴れた。彼らの描く絵を見
 ているのは楽しかったし、雨田が言ったように、こちらにとってもちょっとした刺激にもなった。

 通ってくる子供だちともすぐに親しくなれた。私かやることは、子供たちが描く絵を見て回って、
 ささやかな技術的な忠告を与えたり、良いところをみつけて褒めたり励ましたりすることくらい
 だった。私の方針として、できるだけ同じ題材を何度も描かせた。そして同じ題材でも少し見る
 角度を変えれば、ずいぶん追って見えることを教えた。人にいろんな側面があるように、物体に
 もいろんな側面がある。子供たちはその面白さをすぐに理解してくれた。

  大人に絵を教えるのは、子供たちに教えるよりは少しばかりむずかしかったかもしれない。教
 室にやってくるのは仕事から引退した老人だちか、あるいは子供から手が離れて、生活に少し余
 裕ができた家庭の主婦たちだった。彼らは当然ながら、子供たちほど柔軟な頭を持ち合わせてい
 なかったし、私か何かを示唆しても、それを受け入れることは簡単ではないようだった。でも中
 には何人か、比軟的のびやかな感覚を持っているものもいたし、それなりに面白い絵を描くもの
 もいた。私は求められればいくつかの有益なアドバイスを与えたが、だいたいはただ好きなよう
 に自由に絵を描かせておいた。そして描かれた絵の中になにかしら良いところを見つけて、それ
 を褒めるだけにとどめておいた。そうすることで、彼らはけっこう幸福な気持ちになれたようだ
 った。幸福な気持ちで絵を描けたとしたら、それでもうじゆうぶんではないかと私は考えていた。

  そしてそこで私は二人の人妻と性的な関係を持つことになったわけだ。彼女たちはどちらも絵
 画教室に通っていて、私の「指導」を受けていた。つまり立場からすれば私の生徒ということに
 なる(ちなみに、彼女たちはどちらもなかなか悪くない絵を描いた)。それが教師として――た
 とえ正式な資格を持たない即席の教師であるにせよ――許される行為だったのかどうか、判断に
 苦しむところだ。成人男女が合意の上で性行為を行うことにとくに問題はないはずだと私は基本
 的に考えていたが、社会的に見てあまり褒められたおこないでないこともまた確かたった。

  でも言い訳するのではないが、自分のやっていることが正しいことなのかどうか、それを判断
 するような余裕は、そのときの私にはなかった。私は材木につかまって、流れのままに流されて
 いただけだった。あたりは漆黒の闇で、空には星も月も出ていなかった。その材木にしがみつい
 ている限り溺れずにすんだが、自分が今どのあたりにいて、これからどこに向かおうとしている
 のか、そんなことは何ひとつわからなかった。
  私が『騎士団長殺し』というタイトルのついた雨田典彦の絵発見したのは、そこに越して数
 ケ月経った頃のことだった。そしてそのときには知るべくもなかったが、その一枚の絵が私のま
 わりの状況をそっくり一変させてしまうことになった

今宵は、いよいよ騎士団長のお出ましだ。この楽しみは次回に持ち越しにする。

                                     この項つづく

    

 

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