A Challenge To Fate

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混沌の極み乙女・コレット・マニーの上昇と下降、そしてシャンソンの幸福力

2014年01月19日 00時15分15秒 | ガールズ・アーティストの華麗な世界


コレット・マニー(Colette Magny)はパリで1926年10月31日に生まれ、アヴェロンのビルフランシュ・ド・ルエルグにて1997年6月12日に没したシャンソン歌手/シンガーソングライター/作曲家。

19歳でOECD(経済協力開発機構)に就職し秘書として働いていたコレットは1963年、突然職を辞しそれまでまったく音楽教育を受けたことがなかったにも関わらず、歌手としてデビューする。どっしりと安定感があり豊かな倍音を含むその声は黒人シンガーを思わせ、特にブルースナンバーで真価を発揮した。シャンソンとブルースのスタンダードを含むデビュー作『チュイルリー』(1963)はヒットを記録し、64年にはオランピア劇場でクロード・フランソワやシルヴィ・ヴァルタンと共演する人気シンガーになった。

Colette Magny - Mélocoton / 1963


Colette Magny "Rock me more and more" live Incomplete | Musique Française | GusyverdeTv mov


Colette Magny 'Basin Street Blues'


しかし驚くべきことに、彼女はデビュー後数年にしてメジャーなシーンから完全に撤退し、音楽的かつ政治的にきわめてラディカルな試みに乗り出すことになった。60年代後半に発表された『Vetmnam 67』と『Magny 68』というアルバムは、アンガジェ(政治参加)した歌手としての、彼女の初期の傑作といえる。ここではジャズや現代音楽畑のミュージシャンとともに先鋭な音楽的試みが行われ、そして歌詞はそのほとんどが政治的な内容になっている。遠くから響いてくるようなパーカッションの音に乗って、広島の被爆者について歌われる"Bura Bura"という曲がとりわけ印象的。

Colette Magny - Bura Bura


同時期のジャズとシャンソンのコラボレーションといえば、すぐ思い浮かぶのは1969年のブリジット・フォンテーヌとアート・アンサンブル・オブ・シカゴによる『ラジオのように』だが、コレット・マニーの作品はそれと比べてもはるかに政治的な歌詞が特徴。おそらくそれが原因で、知名度ではずっと劣っているわけだ。コレットの共演ミュージシャンにはバール・フィリップス、ベルナール・ヴィテ、ベブ・ギュエリン、ワークショップ・デ・リヨンなどフランス・フリージャズの名手が揃っている。

Colette Magny Repression.wmv


コレット・マニーは以後も、歌詞においてさまざまな政治問題を取り上げ、またラルースのフランス語辞典の"marche"の項をそのまま歌ったり、アントナン・アルトー作品の朗読を収めたレコード発表したりと、ユニークな活動を続けてゆく。しかし彼女はメジャーなメディアでは無視され、その曲がラジオでかかることはほとんどなくなった。デビュー当時の人気ぶりを考えると、このような経歴をたどったこと自体驚嘆すべきだが、その作品の圧倒的な力は、彼女の選択の正しさを余すところなく証明している。



シャンソンは
浜崎容子も
得意です

大里俊晴が熱心に日本に紹介した。

注意)本記事にはかなりの無断転載が含まれます。
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