ピエール・アンリの名前を知ったのはロックを聴き始めてから5年ほど経った1981年頃だろうか。高校時代プログレッシヴロックに興味を持ち愛読していた音楽雑誌の名盤カタログに『スプーキー・トゥース&ピエール・アンリ/セレモニー』が紹介されていた。『Fool′s Mate』か『MARQEE MOON』または他のもっと音楽誌だったかもしれない。ブリティッシュ・ロックバンドとフランスの電子音楽ミュージック・コンクレートの共演作と書いてあった。当時このレコードを聴く機会はなかったが、字面だけで冨田勲のシンセサイザーとは違うように感じた。ミュージック・コンクレートがどんなものかは知らなかったが、フランスの電子音楽家としてピエール・アンリ名前は頭に刻み込まれた。
⇒勇気ある失敗作~スプーキー・トゥース&ピエール・アンリ「セレモニー」
実際にアンリの音楽を聴いたのはそれから15年近く経った90年代終わりだった。DJの友人が「クラシックだけどこんなカッコいいのがある」と聴かせてくれたのがピエール・アンリ&ミシェル・コロンビエの「サイケロック」だった。その頃映画『オースティン・パワーズ』で使われそうなグルーヴィーなインストにぐいぐい食い込む電子音は、モンドよりマッドなアウトサイダースピリットを感じた。さっそくアンリのことを調べ始めたが当時はまだネットも発達しておらず、市ヶ谷の日仏会館(現アンスティチュ・フランセ日本)に当時あった現代音楽資料館に調べに行ったが余り資料がなくあったとしても当然フランス語のみで苦労した。2000年にフランス国立視聴覚研究所(L'Institut national de l'audiovisuel、略称:INA)25周年イベントが日仏会館で開催され、当時存命だったベルナール・パルメジャーニなどがオンラインでレクチャーを行った。
そういった学術的な動きとは別に人気DJによる「サイケロック」を含む作品『現代のためのミサ』のミックスアルバムが話題になった。日本独自に高木完&K.U.D.O.のリミックスを制作。他のDJが取り上げていないトラック「プレリュード」を選び、フランスからアンリの音源(ピュルルやバタンなどの効果音?)のコピー厳禁のDATを入手した。いい感じのグルーヴミックスが出来たが、最後の段階で高木が「海外のDJには叶わないから」とビートをすべてカット、リズムのないアンビエントなトラックが完成した。アンリ側に送ったところ「Weird(奇妙だ)」との感想で、アルバム本体には収録しないことを条件にOKが来た。高木のリミックスは特典CDとして封入された。
神田うのがテレビでお気に入りの音楽としてピエール・アンリを紹介していたという情報を中原昌也から得たが、本当だったのかどうか?事務所にアプローチすれば良かったかもしれない。
具体音
具体的に
具体化せよ
あれかさらに17年が経過して、私は一度も会うことなく天に召されたピエール・アンリのことを考えながら年を越す。
ピエール・アンリ・インタビュー【抜粋】*後ほど校正します。
http://media.hyperreal.org/zines/est/intervs/henry.htmlより翻訳引用
Q. あなたは音楽を学んだ後、音の性質を調べ始めました。それはいつですか?またなぜですか?
A. なぜ私が突然新しい音楽宇宙に飛び出したくなったということですか?それは私の正式な音楽教育の実質的な終わり頃のことでした。いままで何度もこの話をしましたが、もう一度言います:ピアノとボーカルのスケールを中心に音楽のレッスンを始めたとき、家の中で、私の周りの両親の庭や家の中と外の世界に耳を傾け始めました。多分それは私が騒音を好きになったきっかけに違いありません。私はパーカッショニストとしてのキャリアをかなり早く始め、私の周りのあらゆるものを叩きました。家具、テーブル、ドラム。その瞬間からノイズ の創作に辿り着き、はるかに複雑で驚異的な、まったく新しいものを作り出そうとしました。最初からストレンジなものを作りたいと思っていました。
アンリはたとえばワグナーを賞賛して演劇的な演奏を愛していた。彼はまた、モーリス・ベジャールのバレエの熱烈な崇拝者となり、ベジャールのグループのサウンド・エンジニアとして世界を旅した。彼はまた、バレエのために多くの作品を作った。 『現代のためのミサ La Messe Pour Le Temps Present』は、バレエの成功とともに人気のある音楽になった。彼は大ホールで演奏され休憩なしに少なくとも3時間続く(異教の)ミサの雰囲気を持った演劇的な音楽作品への好意を表明していた。
Q. 60年代には、ロックグループのスプーキー・トゥース Spooky Toothと『セレモニー Ceremony(儀式)』を共作しました。それはなぜですか?
A. その理由は、芸術的と言うよりはるかに商業的でした。 『現代のためのミサ』でミシェル・コロンビエと作ったエレクトリック・ジャーク Les Jerks Electroniquesが大成功を収めたことで、レコード会社フィリップスの編集者がミサのアイデアに基づいて英語圏のグループと一緒に同じテーマのアルバムを作るべきだというアイデアを提示しました。私はバンドについてまったく知りませんでしたが、今となっては関心がないいくつかの理由で受け入れました。でもこの企画は何年間も結果が出ないままでした。現在私は別のロックグループと新しい作品を企画していますが、今はそれについて何も言えません。
アンリはレコーディング監督をするためロンドンに行った。彼はテープを家に持ち帰って編集作業を始めた。 「彼はヘヴィなベースとリバーブに溺れたヴォーカルが好きではなかったので、一種のカウンターパートとなる『セレモニーII』を作った。この作品は具体音、タムタムのビート、カリヨン、想像上の野蛮な宗教のための儀式などを元にした様々な要素が含まれる。 (ミシェル・シオン)」おそらく、アンリがポップミュージックをどのように見ているかを示している。つまり異教の儀式である。
Q. あなたはエレクトロニック・ミュージックのポピュラーな面に興味がありましたか?
A. 私の音楽は本当の意味でエレクトロニックではないので、あまり関係ありません。私の音楽はテープ音楽、エレクトロアコースティック・ミュージックです。だから私は冷静でいられます。クリエイターは即座の成功を求めません。
Q. しかし、ポピュラー音楽界での電子音楽の状況はあなたの周りでも起こっていますよね?
A. まあ、実際には、私はその状況に好奇心を持つ隙はありません。私は自分のやり方とシステムに集中しています。さらに言えば、私は音楽がどんどん汚染されていると思います...ラジオ、映画館、広告で聴く音楽は完全に恥ずべきものです。そして現時点では一つの音しかないと感じています。聞こえない音です。どこへ行っても 1つのサウンドだけ。標準化された音です。それはデジタルで作られた音であり、それはすべて同じ音になります。これは世紀末に於いて辛いものです。
Q. あなたがフランスのチャートでナンバーワンシングルを獲得したときのあなたの影響は何でしたか?
A. しかし、ヒットパレードでナンバーワンにはなっていません!それは大きな誤解です!レコードはクラシック音楽のカテゴリーでリリースされ、ポップミュージックやロックミュージックではなく、クラシック音楽の基準によって判断されました。同じリスト(2位と3位)は、AranjuezのConcerto de Four Seasons、Albinoniでした。だから、若者たちはラ・メッセ・プル・ル・テンプス・プレゼンツとル・ボヤージュ、ラ・ポルト・エ・ウン・スーリックを買う権利がありました。しかし、それはクラシック音楽のリストでした。
あなたはあなたのライブコンサートで大勢の観客を引き付けました。あなたはロックスターのように感じましたか?
私は私のコンサートに興味を持った大衆の感謝をもって会いました。私は自分の仕事の解釈を行ったところのどこでも、聴衆からの即刻の反応を受けたと信じています。レコードのリリースでは、視聴者の反応はかなり遠いです。レコードはコピーされ、作曲家にとってはあまり面白くないので、聴衆にとってもっと面白いです。しかし、全体的に、音楽は基本的には良いことです。しかし、ディスクだけでなくラジオもあることを忘れないでください。私は最近、電波と知り合いを更新しました。
私は突然あなたの音楽を狂った人々の大衆を見て厄介な経験だったに違いないと思います。
私はいつも私の音楽が占領していたので、これはあまり恥ずかしいことではありませんでした。そしてその連続性によって。