浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

韓流

2013-08-04 17:02:08 | 日記
 今、『女たちの韓流』(岩波新書)を読んでいる。韓流ドラマは「砂時計」しか見たことがない。これは素晴らしかった。長いが、まったく飽くことなくひたすら最後まで見続けたが、それほど魅力ある作品であった。

 先日の研究会の発表時、日本人の「帝国意識」について話したが、参加者から、韓流ドラマの流行により、日本人のなかから少なくとも韓国にたいしてはなくなっているのではないかという意見が出された。

 しかし、まず韓流ドラマにはまっている人々は、こういってよければ中年の女性であり、日本国民からすれば少数派であって、そう簡単にはいえないと答えた。在特会の例もあるし、身近では韓流にはまっている女性が、竹島問題がもちあがったときは韓流はもう見ないなどと語っている姿を知っていたし、またヘイトスピーチで有名な在特会もある。そしてボクの言う「帝国意識」は、対韓国だけではない。

 その質問への答えを考えるために、韓流ドラマを知るべきではないかと思い、本書を購入した。

 二番目に紹介されている「私の生きる理由」、これは見たいと思った。そしてその脚本を書いたノ・ヒギョンの本、『いま愛していない人、全員有罪』を読みたくなった。アマゾンで今中古品を注文。

 確かに、韓流ドラマは魅力的である。

 ノ・ヒギョンは、日本で有名となった「愛の群像」で有名と書いてあった。

 ボクも韓流ドラマの魅力に呑まれるかもしれない。

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冴える『東京新聞』のコラム

2013-08-04 16:10:02 | 日記

 歴史観や国際常識に加え、国語力の欠如をもさらけ出した麻生太郎副総理の発言は世界中から批判が集まったが、活発な国民的な議論を経ずに憲法を変えてしまえばよい、というのは本音だろう

▼憲法改正は国会の発議だけでなく、国民投票が必要だ。初めての体験である。賛成、反対の立場から激しい議論が起きるのは必然だ。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を重ねることで国民はこの国が直面している課題への理解を深める

▼結果はどうあれ、その過程を経ることで民主主義は鍛えられるはずだが、「いつの間にか」変わっているのが理想らしい。その発想は、安倍政権の動きと重なる

▼内閣法制局長官に外務官僚を起用する異例の人事が決まった。集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の見直しに前向きな人物をトップに据える狙いは明白だ

▼自衛隊の海外活動を縛ってきた法制局の解釈は、長年にわたる国会での議論を踏まえ歴代政権が引き継いできた重みがある。「内閣法制局長官が時の政権によって解釈を変更できるなら、企業のお抱え弁護士と変わらない」(阪田雅裕元長官)

▼集団的自衛権の行使容認は究極の「解釈改憲」である。国民が直接、意思を示す機会を与えないまま、過半数の国会議員の賛成だけで憲法は完全に形骸化する。憲法を変えられるのは主権者の多数意思だけだ。安倍首相は学び直した方がよい。


 今日の「筆洗」である。





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オリバー・ストーンのインタビュー

2013-08-04 16:03:59 | 日記
 『琉球新報』がオリバー・ストーン監督のインタビューを載せている。pdfファイルだから、印刷もできる。

http://ryukyushimpo.jp/uploads/img51fda55651ee0.pdf

 『琉球新報』は、沖縄の課題に真正面から取り組んでいる。その社説も鋭い。

オスプレイ追加配備 この国は民主国家か 人道に反する危険強要2013年8月4日

 米海兵隊は岩国基地(山口県岩国市)に一時搬入していた垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ12機のうち2機を3日、宜野湾市の普天間飛行場に追加配備した。
 県民は、オスプレイの安全性や常駐配備に伴う騒音激化を強く懸念している。7月中旬の県民世論調査では8割超がオスプレイ配備に反対した。大半の県民が普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する中でオスプレイを強行配備し、危険との共存を強要するのは民主国家にあるまじき暴挙である。
 日米はオスプレイを米本国へ撤収させた上で、新たな普天間返還合意を模索するべきだ。

 現実離れの神話

 オスプレイは虚飾にまみれ、米軍の事故対応なども過小評価、情報隠しが際立ち信頼性が疑わしい。
 米海兵隊は、2009年に被害が甚大なクラスAの損害額の評価基準を「100万ドル以上」から「200万ドル以上」に引き上げた。
 この見直しで従来の評価基準なら3・98となるオスプレイの事故率が、1・93と低くなった。この作為を指摘すると、米側当局者は「事故が多いのは試作段階の話。今は安全だ」などと反論する。
 だが現実に事故は起きている。オスプレイは開発段階で30人が死亡し、昨年4月にモロッコ、6月には米フロリダ州で墜落事故を起こし計9人が死傷した。海兵隊のオスプレイに限っても06年以降30件以上事故が起きた。日米の「安全宣言」は神話にすぎない。
 10年にアフガニスタンで起きた墜落事故に関しては、事故調査の責任者だった空軍准将(当時)が「機体に問題があった」との報告を作成したところ、空軍上層部の圧力で「人為ミス」に書き換えさせられたことが分かっている。
 09年まで17年間、米国防分析研究所の主任分析官としてオスプレイ開発に関わってきたレックス・リボロ氏は本紙の取材に対し、ヘリモードでエンジンが停止した場合に通常のヘリならオートローテーション機能(自動回転機能)で着陸できるが、オスプレイには同機能が欠如して「どこにでも墜落する」と証言。安全性に「深刻な穴がある」と指摘した。
 米本国と海外基地の運用で対応が異なる、アンフェアな実態もある。米ニューメキシコ州で予定された米空軍のオスプレイの低空飛行訓練は、住民の反対で延期され訓練内容が見直された。ハワイの二つの空港でのオスプレイの着陸訓練が、住民の反対で撤回されたこともある。命をめぐる「二重基準」など人道上許されない。

 国民への印象操作

 防衛省は先月30日、オスプレイをめぐり県が日米合意の運用ルールや安全確保策に違反すると指摘していた318件の飛行について、「合意違反の確証は得られていない」との検証結果を公表した。
 防衛省の担当者は「米側も日米合同委員会の合意に基づいて飛行していると繰り返し述べている。政府としてそれを否定するような立場にはない」と会見で説明した。
 防衛省のこの対応は、検証結果公表の狙いが県民への説明ではなく、国民への印象操作にあると自白しているに等しい。根拠もなく「安全」を触れ回り、国民をミスリードする国の手法は姑息(こそく)である。
 普天間飛行場へのオスプレイの配備理由として、日本政府関係者は「抑止力の向上」を重要視する。
 だが、オスプレイの安全性や採算性を疑問視する非営利組織「米政府監視プロジェクト」のベンジャミン・フリーマン博士は、「オスプレイは超音速の戦闘機ではなくただの輸送機。日本への攻撃や侵略を防ぐ能力はない。抑止力なら既に存在する空軍が担っている」と指摘。「オスプレイの沖縄配備は不要」と断言する。
 米議会有力者や安全保障専門家からも辺野古移設見直し論や海兵隊のオーストラリア移転、米本国撤退論が出ている。日米は民主主義を踏み外した安保政策から脱却すべきだ。オスプレイ、普天間飛行場を沖縄から撤去させるときだ。
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死者の声を聞くということ

2013-08-04 07:18:00 | 日記
 昨日、忌野清志郎のいわばプロテストソングを紹介した。清志郎はしかし、今はこの世にはいない。ボクが清志郎を聴くということは、死者の声を聞くということとなる。

 『世界』8月号に、「憲法と死者」という文が掲載されている。若松英輔という人が書いた。ボクは、この名を初めて見た。“改憲”の動きに抗して、死者の声を聞け、というのである。

 「憲法とは、法であると共に理想でもある。それは、本来的に生者のみならず死者を含んだ国民が、為政者の暴走を制御するために産み落とした叡智の顕れにほかならない」と。

 日本国憲法は、第二次世界大戦という無数の死者を産み落とした戦争の、その死者の声をもくみあげて作成されたものではなかったか、と問いかけるのである。

 ボクはその主張に賛意を表しながら、とくにボクが驚いたのは、若松がその主張を論じる際に、すでに今はなき哲学者アランを引用していることだ。

 若い頃、哲学者の本をたくさん読んだ。書庫には、今もなおほこりをかぶってはいるが、それらの本はある。ソクラテス、プラトン、カント、ヘーゲル、ハイデッガー、サルトル、ニーチェ、キルケゴール・・・・・・いずれも文庫本が多いが、ボクらの世代はそうした哲学者の書も、「古典」として読んでおくべきものであった。どれほど理解したのかはわからないが、とにかく挑戦した。それらの哲学者は、死者である。

 考えてみれば、若い頃読んだ、社会への警告を書き綴った論考には、こうした哲学者の思考が必ずあった。自らの主張には、古今東西の思想家のその思想が血肉化されているのだ、それを踏まえているのだ、知の蓄積のうえにみずからの主張があるのだということが示されていたような気がする。

 今でも、欧米の研究者の本を読むと、古今東西の思想家、ギリシャ哲学から現在の思想家にまでおよぶ知の歴史のそのうえに、みずからの論考があるということが誇らしげに示されていることを発見する。

 しかし、近年の日本の論壇は、そういう書き方をしてこなかったような気がする。だからこそ、ボクは若松の文を読んで、驚いたのだ。

 若松はアラン『感情 情念 表徴』から、「明らかに、私たちの思想は読書によって形づくられる。そして読書とは、不滅の存在たちの意見をきくことなのである」を引用する。ボクは図書館からその文が掲載されている『アラン著作集』3を借り出した。引用された文の次は、こうある。

 「私たち生者は物質にほかならないのに、彼ら死者たちは精神にほかならない。つまり、私たちがもっていたいと願う美徳、私たちの肉体が多くの偶然に支配されるため風のなかの灯のように消滅させてしまう美徳を、死者たちはぜんぶ所有していると私たちは考えるのである。死者たちもまたかつては私たちと同様だった。しかし彼らがこの世界の外に出て、弱点と病気と死から永久に解放されている今となっては、私たちは彼らの純粋な面影だけに再会する。おそらくこの偉大な人々の天国こそ、ほかならぬ精神というものである。・・・」

 ボクたちは、今からでも遅くはない。そうした「精神」、「不滅の存在たちの意見をきく」必要があるのではないか。

 最近の急激な社会の変化のなかで、ボクたちはながいながい人間の歴史、知の歴史との格闘なしに現代を捉えようとしているのではないか、若松の文は、それに気づかせたようだ。

 「精神」には、汲めども尽きぬ知が、ボクたちの問いかけを待っている。

 

 
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反原発ソングの決定打!

2013-08-04 00:18:41 | 日記
 とにかく聴いてみよう!


https://www.youtube.com/watch?v=Z_Tg3sW9ElU
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