今日は静岡で講演。浜松の某所で講座をやるときは、もっと賑やかで、狭い部屋が人でいっぱいになるのに、静岡ではひろい会議室に約30人。そして静かだ。講演後に質問をうけつけたが、その話すスピードが浜松と比べるとゆっくり。
静岡は駿河国、浜松は遠江国、国が違うのだから当然か。
帰途、ボクの属している研究会の初代会長のご自宅を訪問。いつものように机に向かって本を読まれていた。先生は、本を読みながらいっぱい付箋をつけていく。その付箋も多色である。今まで疑問に思っていたので、色を変えるのは何か理由があるのかと尋ねたら、意味はなく、色がいっぱいあったほうがよい、ということだった。
以前お邪魔したときとは異なる本が多数あった。その多くにカラフルな付箋がついていた。
会話の中で、いつものように、先生は、弁証法を力説された。現実世界を、あるいは歴史世界を弁証法的に捉えることの重要性をいつも指摘される。
ボクも学生時代から弁証法については学んでいる。最近はあまり自覚しないが、以前は弁証法的な論理学にもとづく概念をよくつかっていた。
先生のご研究は、論理と実証が二つともうまい具合にかみ合って存在している。そしてきわめて精緻である。ボクなんかとても足元にはおよばない。
ずっと前から、歴史理論についてお書きになったらどうか、とすすめてきたのだが、未だ実現していない。歴史理論というのは、歴史を認識する論理でもあって、やはり学問研究には論理がなければいけない。論理がない研究というのは、柱のない家のようなものだ。
先生と話をしていると、そういう気がする。
静岡は駿河国、浜松は遠江国、国が違うのだから当然か。
帰途、ボクの属している研究会の初代会長のご自宅を訪問。いつものように机に向かって本を読まれていた。先生は、本を読みながらいっぱい付箋をつけていく。その付箋も多色である。今まで疑問に思っていたので、色を変えるのは何か理由があるのかと尋ねたら、意味はなく、色がいっぱいあったほうがよい、ということだった。
以前お邪魔したときとは異なる本が多数あった。その多くにカラフルな付箋がついていた。
会話の中で、いつものように、先生は、弁証法を力説された。現実世界を、あるいは歴史世界を弁証法的に捉えることの重要性をいつも指摘される。
ボクも学生時代から弁証法については学んでいる。最近はあまり自覚しないが、以前は弁証法的な論理学にもとづく概念をよくつかっていた。
先生のご研究は、論理と実証が二つともうまい具合にかみ合って存在している。そしてきわめて精緻である。ボクなんかとても足元にはおよばない。
ずっと前から、歴史理論についてお書きになったらどうか、とすすめてきたのだが、未だ実現していない。歴史理論というのは、歴史を認識する論理でもあって、やはり学問研究には論理がなければいけない。論理がない研究というのは、柱のない家のようなものだ。
先生と話をしていると、そういう気がする。