今日『世界』10月号が届けられた。すでにいくつかの文を読んだが、知らなかったこと、考えるべきことがいっぱいあって、私はウームとうなり続けている。
そのなかで、まず紹介したいのは、熊谷晋一郎さんの「「語り」に耳を傾けて」である。
相模原で障がい者を殺傷する事件が起きたこと、これは日々流れ去る単なる一つのニュースとして忘れるようなことがあってはならないと私は思っている。
先日某所で「どんぐりの家」(アニメ)を見てもらった。障がいを持った家族が、その子どもとともに成長していく話だ。私はこの映画を見る度に、人間の尊厳とは何かを感じるし、人間たちのすばらしい営みに感動の涙を流す。
見終わったとき、一人の男性が「自分が健康であることの素晴らしさを実感したよ」と語った。私は、このアニメを見て、一度もそういう感想を持ったことはなかった。私は、障がいを持った子どもに絶望を抱いた家族が、その子どもから色々学ぶ中で人間として成長していく姿に感動し、また障がいを持った子どもの優しさ(美しい夕焼けを道ばたの小石にも見せたいとして行ったこと)に心を動かされ、さらに多くの人々の協力により、作業所「どんぐりの家」を建設した快挙にも感動した。
先ほどの男性の感想を話したところ、殆どの人はそう考えるだろうといわれた。人生相談でも、苦しむ度合いが強いほどアクセス数が増えるのだ、自分より不幸な人がいることを確認しながら人は生きていくのだといわれた。そうかもしれないが・・・
『世界』の熊谷さんの書かれた文章に、考えるところが多いのだが、そこに紹介されていた東京大学の「当事者研究」熊谷研究室のサイトに載せられた、相模原事件の追悼集会に送られてきたたくさんのメッセージに心を動かされた。
この事件は、忘れ去ってはならないと強く感じた。
http://touken.org/20160806tsuitosyukai/
そのなかで、まず紹介したいのは、熊谷晋一郎さんの「「語り」に耳を傾けて」である。
相模原で障がい者を殺傷する事件が起きたこと、これは日々流れ去る単なる一つのニュースとして忘れるようなことがあってはならないと私は思っている。
先日某所で「どんぐりの家」(アニメ)を見てもらった。障がいを持った家族が、その子どもとともに成長していく話だ。私はこの映画を見る度に、人間の尊厳とは何かを感じるし、人間たちのすばらしい営みに感動の涙を流す。
見終わったとき、一人の男性が「自分が健康であることの素晴らしさを実感したよ」と語った。私は、このアニメを見て、一度もそういう感想を持ったことはなかった。私は、障がいを持った子どもに絶望を抱いた家族が、その子どもから色々学ぶ中で人間として成長していく姿に感動し、また障がいを持った子どもの優しさ(美しい夕焼けを道ばたの小石にも見せたいとして行ったこと)に心を動かされ、さらに多くの人々の協力により、作業所「どんぐりの家」を建設した快挙にも感動した。
先ほどの男性の感想を話したところ、殆どの人はそう考えるだろうといわれた。人生相談でも、苦しむ度合いが強いほどアクセス数が増えるのだ、自分より不幸な人がいることを確認しながら人は生きていくのだといわれた。そうかもしれないが・・・
『世界』の熊谷さんの書かれた文章に、考えるところが多いのだが、そこに紹介されていた東京大学の「当事者研究」熊谷研究室のサイトに載せられた、相模原事件の追悼集会に送られてきたたくさんのメッセージに心を動かされた。
この事件は、忘れ去ってはならないと強く感じた。
http://touken.org/20160806tsuitosyukai/
『大杉栄評伝』を読み終えた。古本屋で購入したものだ。刊行は1976年。40年も前に出た本である。この時代は、現在のように世界的な社会主義勢力の凋落の時代ではないから、後半50頁は、社会主義的な思想における大杉の位置みたいなものを書き綴っている。これを読みながら、現時点で、社会主義的な思想にしめる大杉の位置を云々してもしかたがないように思えた。それよりも、アナキストとしての大杉の思想を前面に出していったほうがよいのではないかと思った。大杉が批判したボルシェビキは、すでに過去のものとなり、アナボル論争に言及しても、一般の人にはまったく通用しないだろう。
現在の地点から見て、大杉の思想をどう料理するかをいろいろ考えているが、答えはなかなか出てこない。難しい問題だ。
とにかく、大杉に関する本を読みあさり、一定の方向性をもったうえで、大杉の著作を読み進めようと思うが、今月はなかなか忙しい。
現在の地点から見て、大杉の思想をどう料理するかをいろいろ考えているが、答えはなかなか出てこない。難しい問題だ。
とにかく、大杉に関する本を読みあさり、一定の方向性をもったうえで、大杉の著作を読み進めようと思うが、今月はなかなか忙しい。
戦国時代から幕藩体制の成立までの歴史を、アジア史のなかに位置づけて描いたものだ。この時代におきた様々な事象を、アジアとの連関のなかから捉えようとする中で、新たな歴史像も、すべてではないが浮かび上がってくる。その意味では、参考になる本だ。
とりわけ秀吉による朝鮮侵略を「16世紀末の「大東亜戦争」」として描くのも、単にこの事件が日本と朝鮮、明との関係だけではなく、周辺の諸地域との動きの中で起きていることを指摘する。そもそも秀吉にそうした東アジアだけではなく、東南アジア、南アジアまで含めた単純なまでの構想があったのだから、それも当然といえば当然だ。
最近私は、この時代の動きを、ヨーロッパの動向も含めて講座でとりあげている。まさに世界史的な視野からヨーロッパ勢力の東漸、その理由を指摘しながら、倭寇やキリスト教、南蛮貿易など、そして日本の貿易から海禁政策までをひとつながりで話すようにしている。
今月後半に、そうした話を再びするのだが、その際に、本書を読んで得た知見を取り入れていきたいと思う。本書はべつに新しい史料をもとに新しい構想が描かれたわけではなく、視点を変えれば歴史像は自ずから異なってくるということを示している。参考になるだろう。
とりわけ秀吉による朝鮮侵略を「16世紀末の「大東亜戦争」」として描くのも、単にこの事件が日本と朝鮮、明との関係だけではなく、周辺の諸地域との動きの中で起きていることを指摘する。そもそも秀吉にそうした東アジアだけではなく、東南アジア、南アジアまで含めた単純なまでの構想があったのだから、それも当然といえば当然だ。
最近私は、この時代の動きを、ヨーロッパの動向も含めて講座でとりあげている。まさに世界史的な視野からヨーロッパ勢力の東漸、その理由を指摘しながら、倭寇やキリスト教、南蛮貿易など、そして日本の貿易から海禁政策までをひとつながりで話すようにしている。
今月後半に、そうした話を再びするのだが、その際に、本書を読んで得た知見を取り入れていきたいと思う。本書はべつに新しい史料をもとに新しい構想が描かれたわけではなく、視点を変えれば歴史像は自ずから異なってくるということを示している。参考になるだろう。