昨日日帰りで上京、その新幹線車中で読み終えたのがこの本。『朝日新聞』の先週の書評で、憲法学者の石川健治氏が紹介していたので早速購入して読んでみた。知的なエッセイ集といったところである。
小倉氏は京都大学の教員である。京都を逍遥しながら、京都に関わりのある知識人について、自身の関心から一部を読み説くというものだ。確かにその背景には小倉氏の知的世界の広がりがあり、私自身の脳の活性化に寄与したのではないかと思う。
笑えたのは、各所でみずから問いをたてながら、「知らぬ」と書き切る潔さである。とはいっても、それならみずから問いをたてるのはやめればよいのではと思ってしまう。
最初に小倉氏は、「悲哀」に重い意味を付与する。
「生を、その極限まで生ききることである。その一瞬の極限に、生の絶頂をかがやかすことなのである。そのはかなさを生ききることが、悲哀することなのである」
というように。
また「諸行無常」を、「力を持った者が強引につくろうとする虚構の「歴史秩序」が、世界のすべての無秩序な意志の闘争によってうつくしく破砕されて乱れ散る様相を語っている」とする。これは「諸行無常」の拡大解釈ではないかと思ってしまう。
このように、小倉氏は、語彙の従来の解釈を一気に飛び越えることをする。それもまた楽しい。
小倉氏は、高橋和巳と村上春樹を並べる。もちろん氏は高橋和巳を称揚する。その一方で、村上春樹の小説は「息ができないので読めない」と切り捨てる。私にとっては、高橋和巳は重量級の思索を持った小説を書き、村上は軽佻浮薄な観念をもてあそぶだけの小説を書いたと思っているので、その点では小倉氏に共鳴する。
この主張は、私も同感である。
「ひとは、主体性を持っているのではない。ひとを構成しているのは、無数の他者の主体性であって、個というのはその多数性のせめぎあいのなかから、立ち現れるものなのである。」(079)
ひとは他者との関係性の中でみずからを立ち上げるのだ。言い方を変えれば他者の存在なくして個人は成りたち得ない。「引きこもり」というのは、他者との関係を絶ってしまっているからみずからを立ち上げることができないのだ。他者との関係をたくさん持てば持つほど、ひとはみずからの個を豊かにすることができるのである。
論ずべき点が多いのが本書である。しかし私はこうしたエッセイに関わり続けるほど暇ではないので、この辺で紹介を終わりたい。
知的刺戟に満ちた本ではある。この著者の他の文献も読むつもりである。
小倉氏は京都大学の教員である。京都を逍遥しながら、京都に関わりのある知識人について、自身の関心から一部を読み説くというものだ。確かにその背景には小倉氏の知的世界の広がりがあり、私自身の脳の活性化に寄与したのではないかと思う。
笑えたのは、各所でみずから問いをたてながら、「知らぬ」と書き切る潔さである。とはいっても、それならみずから問いをたてるのはやめればよいのではと思ってしまう。
最初に小倉氏は、「悲哀」に重い意味を付与する。
「生を、その極限まで生ききることである。その一瞬の極限に、生の絶頂をかがやかすことなのである。そのはかなさを生ききることが、悲哀することなのである」
というように。
また「諸行無常」を、「力を持った者が強引につくろうとする虚構の「歴史秩序」が、世界のすべての無秩序な意志の闘争によってうつくしく破砕されて乱れ散る様相を語っている」とする。これは「諸行無常」の拡大解釈ではないかと思ってしまう。
このように、小倉氏は、語彙の従来の解釈を一気に飛び越えることをする。それもまた楽しい。
小倉氏は、高橋和巳と村上春樹を並べる。もちろん氏は高橋和巳を称揚する。その一方で、村上春樹の小説は「息ができないので読めない」と切り捨てる。私にとっては、高橋和巳は重量級の思索を持った小説を書き、村上は軽佻浮薄な観念をもてあそぶだけの小説を書いたと思っているので、その点では小倉氏に共鳴する。
この主張は、私も同感である。
「ひとは、主体性を持っているのではない。ひとを構成しているのは、無数の他者の主体性であって、個というのはその多数性のせめぎあいのなかから、立ち現れるものなのである。」(079)
ひとは他者との関係性の中でみずからを立ち上げるのだ。言い方を変えれば他者の存在なくして個人は成りたち得ない。「引きこもり」というのは、他者との関係を絶ってしまっているからみずからを立ち上げることができないのだ。他者との関係をたくさん持てば持つほど、ひとはみずからの個を豊かにすることができるのである。
論ずべき点が多いのが本書である。しかし私はこうしたエッセイに関わり続けるほど暇ではないので、この辺で紹介を終わりたい。
知的刺戟に満ちた本ではある。この著者の他の文献も読むつもりである。