かなり以前ですが、李白の月下獨酌を紹介した事がありますが、実はあれは「壱)。実は其の弐」「其の参」「その四」迄あるのだ。これは針爺さんも知らなかったよ。そこで自分の為にも改めて、見る事にしました。で、皆さんも一緒に勉強ね。 (其の壱)をもう一度見返してくれたら有難い。これに気を良くすると、参・四も紹介しようと思う。多分迷惑だと思うけど。(笑)
盛唐の詩人、李白は大酒飲みだ。だから、なんだかんだ言って理屈を捏ねちゃー、酒を飲む。酒飲みの正当性を論じて、その度に飲むんだね。別に人から非難されている訳でもないと思うのだが。でも当時は喰うのも精一杯だった時代に昼からと言うより下手をすると、朝から飲んでちゃー、そりゃー、言われても仕方がない。でも、そんな李白を悪く言う奴はいない。杜甫(詩聖)と共に、国を代表す詩人であるし、李白から酒を取る事はかえって犯罪に近いからだ。
それでもこうやって酒を飲む度に弁解がましい事を歌っているのは、一点の疾しいと思う心があるからかもね。李白だって人の子でい!。でもそれが愛すべきところでもあるのかも。
こんな風流な処で酒が飲めたらさぞかし美味しいんだろうね。別嬪さんといっしょに!。だはは。←それがいやらしいんだよ。針は下心見えすぎなのか!。だはは。
(其の弐)
(壱) 天若不愛酒 酒星不在天。地若不愛酒、地應(応)無酒泉。天地既愛酒、愛酒不愧天。
(読み) 天もし酒を愛せずんば、酒星は天に在らず。地もし酒を愛せずんば地にまさに酒泉無かるべし。天地既に酒を愛す、酒を愛するは天に愧じず。
(意味) 天が酒を好きじゃないあなら、空に酒星がある訳がないし、地が酒を好きでないなら、酒泉なんてある訳がないぞ。(実際ないんですけど、当時は信じられていたのかも)
天と地が酒を好む以上、酒好きな事を愧(は)じる事はないぞ。
(弐) 已聞清比聖 復道濁如賢 賢聖既已飲 何必求神仙
已に聞く清を聖に比し、復、道(いう)濁は賢の如しと。賢聖既に已に飲む、何ぞ必ずしも神仙を求めん。
昔は清酒を聖人に例えて濁酒(どぶろく)を賢人に例えた。聖人賢人が酒を飲む以上何も神仙を求める事はないじゃないか。
(参) 三盃通大道 一斗会自然 但得酒中趣 忽為醒者傳
三盃は大道に通じ、一斗自然に合す。ただ、酒中の趣を得んのみ、醒者の為に傳うる勿れ。
酒を三杯飲めば大道に通じ、一斗で自然と合体するんだね。
針外しは当然、聖人でも賢人でもありゃしない。でもね、お酒を飲めば、、無為自然とはいかないまでも、無駄な力が取れて、小賢しい理屈もこねずにいい気持になれる気がするぞ。針は「老荘思想」を敬愛します。人を好きになるのは(・・・ちょ、ちょっと話が違うような)、自然の成り行き、酒を好むのも自然の成り行きだと思っています。でも、この世はあまりにも柵(しがらみ)に縛られている事が多い。もうちょtっと箍(たが)を取っ払ったっていいじゃないか。ただ、面倒臭いのは御免だ。昔から、「君子の交わりは淡きこと水の如し」っていいます。もっと、サラーッと接すればいいと思うのね。
好きになっちゃったもんは、しょうがないね。それが無為自然で素直な気持ちだということだね。ただ李白の境地で言うとただ、だらだらと飲む事が無為自然という事ではない。其処に風流を感じる心、高邁な心が伴わないとただの、酔っぱらいの戯言になってしまいますな。