2012.10.1(月)雨、曇
三和町史上巻に但馬国豊岡町の町名主由利六左衛門の「参宮道中記」という道中記が載っている。
一 伊(菟)原村但馬屋義左衛門方ニて我等も昼弁当遣、此家ハ茶至而宜候、宇治茶同様之品も出候旨承也、、、、、
一行が菟原中の但馬屋で昼食をとった様子が書かれているが、説明文では次のように書かれている。
屋義左衛門の家は「直ニ大久保峠(細野峠)ニかかり」とあるように菟原中村の宿垣内にあったものと思われる。
つまり但馬屋の位置は確定されていないのである。京街道の宿場町と言えども数百メートルの間に数軒の宿があるだけなのにどうしてその位置が確定できないのだろうか。しかも真粉屋、藤屋、あたらし屋の三軒は街道沿いに確定できているのにだ。
これこそが但馬屋、油屋、さかもと屋という宿が山側の道筋にあったということにならないだろうか。不寝の森にしてもそうである、あらゆる文献に「不寝の森」と出てくるのだが、その位置を確定している文は一つも無い。
道上の林の中を京街道は走っていると言うのだけど、、、。
「京街道を行く」(三和町郷土資料館発行)が京街道についての詳しく書かれた資料だと思う。その後のパンフレットや立て看板などもこの資料をもとに作製されたのだろう。これらの資料の中に不寝の森や但馬屋などの宿があったとするいわゆる山側の道は載っていないのである。
もし藤田さんが言われるように山沿いに街道が走っているとしたら、それは短い距離の一部分だが、重要な施設があるだけに無視できない部分である。
地元の藤田さんが知っていることがなぜ街道の調査に活かされなかったのか、わたしには大きな疑問である。
例によってげすの勘ぐりなんだが、バンド坂からの街道が高杉に向かう府道79号線を横切って、あまりに素直に宿垣内の家並みのところに続いているので、まさか山側に道があろうとは思わなかったのではないだろうか。
京街道が府道79号線を横断する部分。「山陰道細野峠越」という立派な看板がある。
また、山側に街道があったとして、その取り付きはどうなっているのだろう。府道横断部分からヴェルディみわの取り付け道まで100mほどあり、その間北側に一軒の家がある。府道横断までの道の角度からいうとこの家の裏手を通っていたのだろうか。いろいろと疑問が沸いてくるが、現地を歩いてみないことには始まらない。つづく
【晴徨雨読】62日目(2006.10.1)八甲田山登山
9月22日に訪れたとき全然紅葉していなかったので10日振りに訪れる。酸ヶ湯から登りはじめ仙人岱、大岳と登りそれなりの紅葉に満足していた。井戸岳とのコルから毛無岱に向かっているとき、下から登ってくる登山者に、「驚きますよ」と言われた。何に驚くのか不審に思って下って行くと、急に林が開け、一面の紅葉、それも黄、赤、緑が混ざってこの世のものとは思えない景色が拡がったのである。長い間山も登ってきたし、紅葉の名所も巡ってきたのだがこんなに素晴らしい紅葉にはあったことが無い。人間は美しいものに取り囲まれていると幸せを感じるものである。心も足もすこぶる軽くなる。しかし今、写真を見てみると曇のせいか腕のせいか知らないが体験した美しさが再現されることは無い。
【今日のじょん】:ここんとこ天気悪いので焦るんだが、うんPするまでが大変、この画像に至るまでに5分ぐらいうろうろしてるんだからも~。
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