2012.10.22(月)晴れ、曇
春日田バンド(菟原中)
バンド坂やバンド地蔵の呼称の元となっている地名、小字名だが字限図でみると友渕川の左岸が春日田で右岸がバンドとなっている。春日田とバンドは直接関係なく字地名として合成したもののようだ。
梅田神社からバンド、左の森の中を京街道が走っている。クロスするように右斜めに降りている道は新しいもののようだ。
バンドは番戸の意味で街道の番屋があったのでは無いかと予想したが、宿の方面にあっただろう不寝の森あたりに番屋があっただろうと想像すると、バンドに番屋があったとするのは不自然である。街道筋の極近距離に二つの番屋はありえないだろう。さすればバンドとはなんだろう、
菟原村史に次の文がある。
「市川彦兵衛墓 兎原中村
バンドウが坂を登る。左に座像石地蔵、座ると雖も三尺余。一間四面の借の堂なり。古甲斐国甲府よりの浪人なり。此村にて田中大隅守代官を勤め、元禄の頃死す、子無し。その像を地蔵に作り移し置くという。田地一反ばかり附置き寺え上げ置くとなり。」
丹波志から書かれたもののようだが、地蔵像となって残っているということは、この地域に貢献があったか、人々に慕われていたかという風に思える。バンドウと書かれているものはいくつかあり、市川彦兵衛なる者が甲斐国甲府の出身となると、やはりバンドは坂東(ばんどう 関東地方)の意ではあるまいか。
つづく
右手にあるどれかが市川彦兵衛のお墓。バンドの地蔵堂の左下の草むらが京街道だが、右手の急坂は進入角度、傾斜度ともに街道としては違和感が残る。
【晴徨雨読】83日目(2006.10.22)一関~仙台
一関から仙台までどうして国道4号線を選んだのか分からない。やはり寒くなるまでに東北を終えたいという焦りがあったのだろうか。本来なら登米、石巻、塩竃、多賀城を通って仙台に入るべきだった。旅程が伸びても一日ぐらいだろう。焦って仙台に入ったら嵐となって三日間も籠城することになる。金成町の資料館に寄ったのがせめてもの収穫。
金成歴史民俗資料館は明治43年築の旧金成尋常高等小学校。
【作業日誌 10/22】
薪づくり
【今日のじょん】:じょんには念道橋がよく似合うシリーズのシャッターチャンスを狙っているのだが、セイタカアワダチソウと防獣フェンスが思い切り邪魔をする。本当はススキの穂が良い季節なんだが、、、