2012.10.7(日)曇、雨 別所探訪(13)は(2012.10.2)
毘沙門堂は景清稲荷本殿の右にあり、毘沙門堂の表示があるわけではないが中に置かれた祠の中に「南無毘沙門尊天」のお札があり、祠の横に木造の毘沙門像があるのでそれと解る。
ゴウドの森を調査された柴田氏がなぜ毘沙門堂について言及していないかという点は不思議である。それは不寝大明神よりも毘沙門天の方が産鉄の地としての状況証拠になり得るからだ。しかもわたしの調査では、不寝大明神は京街道沿いの宿(しゅく)にあったようで、毘沙門天こそが別所にあったということが判明した。
それは毘沙門堂の祠の中にあった棟札に、「丹州天田郡菟原中村別所毘沙門堂棟札」とあり、毘沙門堂の謂われが書かれている。最初に発見した際には一部分しか見えなかったのだが、次回区長さんに同行してもらって取り出したところ、思わぬ長文で驚いた。幸い楷書で書かれているので、大綱を約す。
毘沙門堂の棟札は思わぬ長文だった。
「別所毘沙門堂は往古は大伽藍をなす霊地であり、遠近から多くの人がお参りに集まった。雨露に曝され荒れ果てていたところを明和五年頃当山五世宝州和尚が小堂を再建し尊像を安置した。年が経ってはからずも盗賊によって小堂が破られた。嘉永六年再び破壊され、二十一世珉竜代当堂を建てるものである」
というような内容である。
毘沙門堂が別所にあったことは間違いが無い。別所が産鉄の地であろうというかなり薄いが状況証拠のひとつとなるだろう。
それでは毘沙門堂は何時、どうしてゴウドの森に来たのだろうか。
先日龍源寺でお借りした「菟原村史」に以外な一文を発見した。京街道の元々の道筋として、「細見村小路ヶ端(河内野のことか)から菟原下小字柏田、猪ノ倉、淵脇(ふちわけ)、清水坂を通り、菟原中の別所、真船口に廻り、宿を経て朴野峠(細野峠のこと)を越えて云々」とあるのだ。
初めて三和町辻から細野峠まで京街道を辿ったとき、違和感を覚えたことがある。 地図を見るとすぐに解ることだが、菟原の地域は土師川に山がせまり、流れが複雑に蛇行している。古い街道なら川を渡ることをなるべく避け、遠回りであっても急峻であっても山を巡るルートが普通である。それは架橋の技術も未熟であるし、出水の度に崩壊するからである。それなのに京街道は柳瀬とバンド坂の下で二度も渡橋することとなっている、これは違和感を覚えざるを得ない。
柳瀬橋とバンド坂下の渡し。
土師川を渡らない旧の京街道があったということを知って、我が意を得たりという気がした。つづく
【晴徨雨読】68日目(2006.10.7)ニセコ滞在
風雨強く、宿に籠もっていたのだが奥さんが気を使ってか倶知安での買い物と昆布温泉に車で連れてってくれた。あとは宿でブログの更新をするばかりだが、それはそれで焦ることもなくのんびりと過ごした。
雨のニセコ、宿は廃校の藤山小学校、窓の外はグランドだ。
【今日のじょん】:じょんはあまり水を飲まない。必要なら飲むだろうと気にもしていないのだが、かみさんは他のワンちゃんと比較して気に病んでいる。特に朝の運動後の水飲みは見るからに嫌そうでグズグズノソノソと飲むので、これは動画ものとばかりにカメラを向けるが、動画ボタン押すのを忘れていた。とりあえず静止画で、、、、。
オモシロナイ