2012.10.8(月・祝)快晴
菟原中別所を訪ねる前に、井脇別所(京丹波町)、綾部市別所町、星原町別所などを訪ねている。そしてそこで感じたことは地形的な閉塞性である。
井脇別所は自動車道の工事中で中に入れず実感としては判らなかったのだが、綾部市の両別所は入口部分が両側からの尾根で門のようになっており、道路はいずれも袋小路になっている。菟原中別所は逆に尾根上だが、友渕川、土師川、薬師谷もしくは岼ヶ鼻川と三方を川に囲まれ、もう一方は山となっている。柴田氏が蝦夷の俘囚を移配したとする理由が解るようなきがする。つまりこういう閉塞的な地形は幽閉し、逃亡を防ぐには理想的な地形だからである。
こういった考えを一掃したのが、菟原の旧京街道である。別所のど真ん中を往時の幹線道路が通過しているのだ。別所町だって中心部の辻に「右 たなべみち 左 むらみち」の道標があった。
別所町の道標
星原町別所こそ行き詰まりの地だと思いきや、遠坂峠から白道路(はそうじ)に抜け各地に行ける道なのだ。これ等は幹線道路ではないが、重要な地方道とでもいえるだろう。
つまり、閉塞の地だと思うのは現代人の感覚であって、往時においては決してそうではないと思うのである。
そういった意味を考えながら旧京街道を追跡しながら菟原中別所を訪れた。菟原に通い始めて四回目のことである。
2012年10月5日(金) 快晴
菟原下柏田の道わけ地蔵を右にとる。「右 ささやま道」の方向である。「左 京道」に行くと柳瀬で土師川を渡る新京街道になるので右は正しいと思う。
菟原村史に「柏田から川を左に見て、高杉村に京道の牛馬の通らない間道がある」と記されている。おそらく丹波志からの転載だと思うのだが、これが旧京街道のことだろう。三和タオルの工場の先で山手を巡る道と田んぼの中を直線的に進む府道710号線の道に分かれる。どちらが京街道であったか判らないが、府道は完全に新しい道となっていたので山側の道を行く。土師川の支流を渡るには山側道の方が楽だが距離的には遠くなる。後日確認するつもりだがこの田園地帯が猪ノ倉といわれるところではないか。
矢印の辺りが道わけ地蔵、右ヘ白い家の所を通って段を降りるのが新京街道。
右手のコンクリートの斜面の下が国道9号線、正面のガードレールが府道710号線、撮影地が山沿いの道、このどちらかが旧京街道だろう。
下二の集落に入る辺り左に下り気味の道があり、地蔵堂があり、旧そうな地蔵さまが大切に祀られている。この道が旧街道だとすると、進入角度から山側の道が街道だろう。
道なりに進むと轟(とどろき)大橋という土師川をまたぐ橋に出る。その手前を右に下る道がある。これはもう勘でしかないのだが、下ったところの家で尋ねると、街道かどうかは判らないがその先の岼ヶ鼻川の脇の道は結構近くまで使われていた昔からの道だということだった。土師川を渡らないで淵脇に向かうならこの道が最適だと思う。
岼ヶ鼻川右岸に街道らしき道跡がある。真っ直ぐ行くと土師川を渡る、左上が鹿倉公園。
自転車では辿れないので土師川を渡り、鹿倉公園の横を回って再度土師川を渡り、福林寺の山門の所に出る。これはもちろん街道とは無縁である。二度も大河を渡ることはあり得ないからだ。
福林寺山門、手前は別所、向こうは淵脇、来た道は写真右手。
淵脇(ふちわけ)は土師川が最も極端に蛇行した先端にある集落で、名前の通り淵が発達しており、大変きれいなところである。ただ大水の時は結構恐怖かなあとも思われる。この先端部の細見さんというお宅で、街道や別所に関する情報を戴くこととなる。つづく
【晴徨雨読】69日目(2006.10.8)ニセコ滞在
連日の風雨でニセコも三泊目、二食付きのYHでよかった。ペアレントの奥さんは気の毒に思ってか今日も別の温泉に連れて行ってくれた。ニセコでは三箇所違う温泉に入った。なんと贅沢なところだ。夜はアコーディオンの名手であるご主人の演奏会となる。
長旅を続けているわたしにとっては三日間の停滞も苦にならないが、休みをとって来ている旅行者はつらいだろうなあ。
斜里町での演奏会から帰られて、宿泊者だけに聞かせてくれた。
なんでも帰りの峠は積雪十数センチだって。
【今日のじょん】:モモ姉さん現る。前回、斜めに歩いているとか悲惨な感じがしたが、今日はとても元気で、なによりもスリムになったのがいい。とても食いしんぼで「ジローとパン食い競争したらどっちが勝つかなあ」なーんてしゃべっている。