2012.10.21(日)快晴
別所探訪(20)は2012.10.18
清水坂(菟原下?)
菟原村史に旧の京街道について、「細見村小路ヶ端から菟原下小字柏田、猪ノ倉、淵脇、清水坂を通り、菟原中の別所、馬船口に廻り、宿を経て朴野峠を越えて云々」とある。
確定できないのが清水坂と馬船口だ。馬船口はおおよその位置が予想できるのだが清水坂は今のところ分からない。淵脇を過ぎて別所に至る坂は二つある。
ひとつは淵脇から福林寺のある尾根に登る坂で、もうひとつは義経から別所に至る坂である。村史の書き方を見ると菟原下にありそうで、そうすると淵脇の裏手の山の斜面ということになるのだが、淵脇の細見さんは清水坂は知らないと言うことだった。別所に向かうのは義経谷と言われていた。
淵脇の裏手の斜面を坂は登っているようだ。
義経から谷を直接登るのか、養鶏場の街道跡らしきところへ行くには左に斜面を登ることになる。
坂というと進行方向登坂というイメージだが、下り坂も考えられる。福林寺の尾根から薬師谷に降りるところも考えられる。どういうわけだか薬師谷周辺は細かい地名が表示されており、ミノサコはあったが清水坂というのは気がつかなかった。
馬船口(まぶねぐち 菟原中)
馬船という小字がありその入口が馬船口だと思うが、厳密な位置は確定できない。
字限図によると土師川から友渕川を遡り、別所の東に春日田という小字がある。菟原下の梅田神社は土師川川向かいにあり、春日社も祀っているのでその社領であったのかもしれない。その南に馬船という小字がある。その入口というのだから、友渕川に架かる橋の辺りかと思う。航空写真で見ると友渕川の土師川出合いから二本目の橋である。この橋が馬船口だとすると、菟原村史の「馬船口に廻り」という表現が理解できる。つまり別所から降りてきて(この道も確認は出来ていないが)直接友渕川を渡るのではなく、右手に回り込んで友渕川を渡ったのであろう。
その先は河岸段丘を大きく回り込んで宿(しゅく)に向かう道が残っている。
実は京街道に関する知識の無いとき、2回目の菟原訪問の際に京街道はこれだろうと辿った道なのである。その時は細野峠、宿方面から辿ったのだが、道の進入角度が最も素直であったので辿ったわけである。ところがその道は友渕川に突き当たり、間違いだと分かった。
京街道を探しつつ間違いだと分かった道が実は旧の京街道だったようだ。(左)
京街道が土師川を渡って菟原下に向かっていることぐらいは知っていたからだ。その後バンド坂の京街道を発見することになるのだが、バンド地蔵前の急峻さ、宿に向かう道の角度の不自然さはどうしても理解できないものだった。
もし馬船口から宿に至る旧京街道がわたしの考える道であったなら、総ての疑問は解消する。大きく迂回する坂道は段丘の急峻さを軽減するためのものだし、総ての道の合流点の角度に違和感が無いのだ。
そもそも菟原下を通過する京街道には土師川を二度も渡るという大きな疑問点があった。古代の道は坂道はいとわないが、渡渉や崩壊地は極力避けるという原則がある。そういう意味で、今回予想した旧京街道というのは街道の神髄といえるものだと思う。是非とも足で歩いて確認したいものだ。つづく
【作業日誌 10/21】
薪集め
【晴徨雨読】82日目(2006.10.21)花巻~一関
花巻から北上川沿いに南下するのだが、幹線道路は右岸を走っている。左岸の県道は自動車も少なく、それでいて往古の街道でもあるから地蔵さまや遺物が残されていて最高の道だ。自転車道路は走りやすいが、人の生活というものが感じられなくて面白くない。自転車道が役に立つのは都市部である。何気なく通り過ごしたコースだが、もう一度岩手を訪れることができたらいの一番に行きたいところなのである。特に一関市の舞草(もぐさ)刀の故郷と毛越寺(もうつうじ)は行ってみたい。最も毛越寺は境内まで行っているのだ。これほど重要な寺院でYHをやっておられるところは他に無く、境内まで行ったのだが行事があって泊まれなかった。後ほどYHは止められたとかの噂もあり、残念である。
この附近には古代から豊富な金属が産出する。北上の博物館にあった、西和賀鉱山の用具。
【今日のじょん】:モモちゃん白菜事件
野菜の好きな犬は居るみたいだけど、モモちゃんの食いっぷりには驚いた。あわてて動画に撮ろうとしたらスイッチ忘れて、食い終わってからの影像になってしまった。事件はその後である、吠えるので車に入れられていたモモちゃん、静かになったなあと思っていたら、おみやげの白菜を袋の間から食べてしまったんだって、、。
</object>
YouTube: モモの白菜事件