2012.10.9(火)曇
細見さんの言では、淵脇の淵の上の山中に道があるということだ。そして淵脇の裏手から斜めに、福林寺のある尾根を越え、薬師谷に降りて、義経谷を登って別所に至るという。菟原村史では別所に至る坂は清水坂とあった。これは細見さんも分からないと言うことだった。いずれにしても言われる道が旧の京街道であることは間違いが無いようだ。
淵脇(ふちわけ)の由来はやはりこの淵か。58年の大水で砂利が溜まったそうだ。
その道にはお地蔵さんとか無かったですかと尋ねたところ、別所の養鶏所に祀ってあるでという答だった。今すぐその街道を辿ってみたい気持だったが、なにしろ薮山となっており、バイクパンツのスタイルでは行けそうに無い。
右手淵の上から家の裏を抜け、左に上昇して福林寺の尾根に出るようだ。
次に別所毘沙門堂と不寝の森のことを尋ねた。
不寝の森については名前も聞いたことが無いということだったが、毘沙門堂については、「わたしが嫁に来てから稲荷さんのところに移されました」ということだった。それは戦後のことだということで、昔の伝説などと言うものでは無い。これで不寝の森と毘沙門堂のことは総てがはっきりした。宿垣内にあった不寝の森のことは宿近くの人は誰でも知っているが、遠く離れた淵脇の人は知らない。また毘沙門堂のことはそう昔のことでないのでだれもが知っている。そして二回目訪問の時、滝本さんが、別所にあった不寝大明神が子供の頃に影清稲荷に移されたと言われたのは、毘沙門堂のことを勘違いされていたということのようだ。
次に「別所地名事典」の著者柴田弘武氏が最初に訪問され、様々な聞き取りをされている福林寺について聞いてみた。
柴田氏が福林寺で聞かれたことは、「別所地名事典」から抜粋してみよう。
「福林寺で聞いたところによると、別所は竜源寺(ママ)の所有地で、同寺がもとあった所らしいという。竜源寺の宝篋印塔もここから移したものだという。また墓地だったらしく、五輪塔などが出土し、云々」
「福林寺で聞いたところによると、この景清稲荷(ママ)の祠は別所からうつしたものだという。」
細見さんも福林寺の檀家と言うことなのでよくご存じだったが、残念なことに柴田氏が取材されたと思われる住職は十数年前に亡くなられていた。現在は草山のお寺が兼務されていると言うことなので、天台宗久法寺のことらしい。久法寺を訪ねても上記の真意は解らないと思う。つづく
【作業日誌 10/9】
チューリップ植え込み(10月8日)
じょんのび谷伐採
【晴徨雨読】70日目(2006.10.9)ニセコ~倶知安~積丹半島
旅先でいろんな人に出会うのだが、同じ旅人同士というのはその場限りとなることが多い。そのなかでこの日に出合ったぶんきち夫婦歩き旅は強烈だった。夫婦で日本中を歩いて旅しておられるのだ。道端で挨拶してお話ししただけなんだけど、じょんのびを開店してから、歩いて来じょんされたり、とにかく凄い夫婦である。
本文にブログの案内も書いてるので見てね。
奥さんが撮ってくれたので、夫婦の写真はない。積丹半島の風景は豪快。
【今日のじょん】:最近じょんの「おはよ~」の挨拶が聞けなくなった。なんとか録音したいと構えてるのだが、、、。そんなわけで画像は無し。