2013.1.16(水)晴れ、曇
作日の新聞に「円仁の遺徳しのび法要」という延暦寺での記事が極小さく載っていた。円仁1150年御遠忌については昨年新聞記事を紹介している(2012.9.9)
円仁(慈覚大師)は平安京遷都(794年)に生まれ、最澄の一番弟子として第3世天台座主となった偉大な僧である。
特に東北地方での活動が著名で立石寺、中尊寺、瑞巌寺、毛越寺など大寺院の開祖となっているほか、各地の小さなお寺や薬師堂を開いたという伝説は無数にある。
ここ恐山も円仁ゆかりの地だそうだ。
ではなぜ東北だったのだろうか。円仁が東北で活動したのは最後の遣唐使として渡唐する前ということだから、835年以前ということである。
桓武天皇による蝦夷の平定も表向きは終わっているが、朝廷による蝦夷の実質的な支配というのは及んでいない時期なのではないだろうか。
昨年の新聞記事では、「830年の天長の大地震で出羽に大規模な地割れや土石流が起き、陸奥も疫病がはやる。円仁はすぐに北に向かった。詳しい記録はありませんが、法華経の教えを説き、苦しむ人々の心を救ったのだと思います」とあった。
他の記事にも「蝦夷征伐で疲れ切った蝦夷の人々の慰撫に向かった」などという書き方がしてあった。
古代仏教のあり方や新興の密教の地位、あるいは真言宗との勢力争いなど考慮した場合、天台宗の上層部とも言える円仁がこのような事由で東北におもむくとは思えないのである。そこには深遠な政治的目的があるのではないかと想像する。
蝦夷の支配は蝦夷の信仰する神を朝廷の信仰する仏教に換えて初めて完遂する。このことは蝦夷に限らず、大和朝廷が過去に侵略を進めた地域にも同様のことではなかったか。
別所地名の研究者柴田弘武氏は菊池山哉氏の言を借りて、「別所には多く慈覚大師建立の寺(薬師堂)がある。」その理由は、「慈覚大師伝承は、円仁慈覚大師が俘囚教化のために東国を巡錫して仏堂を建立した事実があったからだ。」としている。
蝦夷の俘囚が移配されている地を教化して廻ったとしたら理屈は合うようだが、円仁の目的が俘囚教化でなく、その地の金属であったらどうだろう。西の空海、東の円仁といわれる内容がまた違って見えてくるのである。
福知山市菟原中の別所の脇にある薬師谷には薬師堂がある、天台宗福林寺の行場のようだが円仁に関係するかは解らない。
【作業日誌 1/16】
ウッドデッキ床張り
【今日のじょん】:東京の大雪のニュースが持ちきりである、死者まで出ているということで気の毒だが、積雪7,8センチということで雪国では考えられないことである。いくつも雪だるまが並んでいるという記事は微笑ましいものがある。作日の菅坂は雪景色だったが、じょんのび村は今のところ春みたいだ。今朝は深い霧で天気は良さそうだ。