晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 新・北越雪譜(3) 1/21

2013-01-21 | 雨読

2013.1.21(月)曇

 村上を訪れたとき、その東に分け入る山岳地帯に思いを馳せることはなかった。三面は秋山郷と並ぶ北越の秘境である。地図で見る限りは秋山郷より山深い様に思える。村上に出るのが14里、山形県小国に出るのが10里の道のりとかで山形側への交易が主であったとか、しかし地図で辿ると想像を絶する山道の難路である。Img_0445 Img_0450
 



村上で海の方に目が向いたのは村上トライアスロンのせいかもしれない。
瀬波温泉の海岸、笹川流れ、共にトライアスロンの舞台である。


 上林は丹波の山奥である、しかし北越の山奥はその比ではない。自然環境の厳しさ、隔絶性どれをとっても丹波にくらぶべくもないのだが、人がそこに郷愁を感じるのは一体何だろう。桃源郷などという言葉も出てくるが、そこに桃源郷を期待しているわけでも無さそうだし、実際に桃源郷などというものでもない。
 北越雪譜が売りだされたとき江戸の人々は競って買ったと言われる。粋な都会生活をしている人々がなぜ田舎の貧しい厳しい生活の書かれた書を買ったのだろう。          
 三面はダムが出来て今はどうなっているのだろう。ダムの下流までしか集落は無いのかも知れないが、行ってみたいと思わせる土地なのである。
 秋山郷も同様である。秋山郷は北越雪譜の主役と言ってもいいだろう。秋山郷は北越雪譜によって初めて世に紹介されたという。地図を辿りながら牧之の足跡を追うとなぜか臨場感が湧いてくる。津南町を通りながら、秋山郷について知らなかった自分が残念でならない。しかも北越雪譜は学生時代から持っていた本なのだ。しかし旅行会社のチラシに秋山郷の字を見つけ、おそれているのも事実である。P1030727

 


 最終に『北越雪譜が出来るまで』という章がある。じつは北越雪譜の後書きか解説にも同様の文があった。これが辺見さんの文なのか同じ文なのか、人に貸して手元に北越雪譜が無いので確認しようがないのだが、内容は同じもののようであったと記憶している。大変興味深い文で、牧之が出版に対し並々ならぬ情熱を傾けるのだが、江戸の文士達は牧之が金も手間もかけて頼んでも一向に埒が開かない。特に馬琴の態度は田舎者と馬鹿にしているようで腹立たしくもなるのだが、牧之の原稿を見てその才に驚き、己の手柄にしようと企んだのではないかと邪推してしまうほどのものである。
 牧之は誠に忍耐強くこの苦境に耐え、遂に出版出来ることとなるのだが、そのおかげで今今日も「北越雪譜」を楽しめるわけである。その忍耐力の源泉はあの想像を絶する雪と冬の長さではないだろうか。
 6年前の真夏に旅した新潟県は極普通の地域に思えたが、今、一番好きなところのひとつになっているようだ。新潟の方言”じょんのび”を屋号に頂いていることがなにかとても嬉しく感じるのである。 おわりP1030655




じょんのびは越後の方言。

【今日のじょん】:最近やたら通用口の前を嗅ぎ回ると思ったら、19日にじっかんさんとこのルルちゃんが来てたのだ。このルルちゃん、じつはルル君で♂なのである。P1030725

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雨読 新・北越雪譜(2) 1/20

2013-01-21 | 雨読

2013.1.20(日)晴れ、曇 2℃

 当初の計画は親不知から糸魚川に行き、姫川沿いに信州に入るものであった。ところが奥琵琶湖で会った折りたたみ自転車のおじさんに「親不知トンネルは最悪」と聞き、親不知は通らないことにした。自転車旅行にとってトンネル通過は最大の問題である。あれから6年あまり、本書を読むまで親不知に迂回ルートがあることは知らなかった。もちろん旅の途中でなんとか親不知を迂回する方法はないものか地図を眺めていたのだけど、これほどまでに大きく迂回するルートは気がつかなかった。
 上路は「あげろ」とよむ。親不知を迂回して青海にでるルートは上路越えといわれるが、命をかけても親不知を通過したいほどの難路である。
 タイトルの「生きたまま鬼になる」というのはこの地の山姥(やまんば)のことだろう。謡曲の「山姥」はこの地の伝説をもとにしたそうだ。上路からしな谷を遡り、白鳥山(1286m)に向かう道を登ると、山姥ノ洞というところがある。辺見さんは村の婆さま達とここに向かうのだ。
 2万五千分の一地図にも載っているこの洞は信州の上篭(あげろ)に続いているという。どんなところか調べたら、大町市八坂上篭で随分遠いところに続く伝説かと思いきや、上篭にも山姥伝説があって、乳房が三つある山姥がいたという。
 婆さまの昔話や今の子供達の学校の話など興味深い話が沢山出てくるが、肝心の青海に抜ける上路越え、地図で眺めてもやっぱり自転車で越えたくはない。

 次に、「毒消しの道」と題された角田浜(かくだはま、現在は新潟市西蒲区)の越後毒消し売りの娘達の話である。実は自転車旅行で国道402号線を通り角田浜を縦断しているのだ。そしてその時の記録にも砂地の畑が何キロと続き、栄養分はどうなってるのだろうと記している。過去においては作物が出来る土地ではなかったのだ。それほど気になっている土地柄だったから、本書を読んですぐに気づいたのだ。この村では毒消し、つまり硫黄(緩下剤)、白扁豆(消化剤)、菊名石(解毒剤)を製造し、女達によって行商させたのである。尋常小学校を出たらすぐに四ヶ月余りの行商に東京方面に出るのである。貧しい生活と厳しい掟で行商をする女達が村の経済を支えていたのである。あの連続する砂の畑を見ていたら然もありなんと思ってしまう。Img_0376 Img_0377
 



角田浜辺りの砂丘の畑(2006.8.27)

 驚いたことにもっと貧しい村があったという、角海浜(かくみはま)は毒消しの元祖の村であるが、昭和に廃村となっている。弥彦山の裏手の海岸と言ったところだが、「海岸決壊の自然の酷薄さ、米一粒もとれない土地であることが離村を招いたのであろうか。」と書いている。弥彦の山並みの東は広大な穀倉地帯であるのに、山と日本海に挟まれた地域との差は強烈である。この地のことも知っておれば訪ねてみたかった地である。つづくImg_0375
 



弥彦の山の向こうには海と山の間の非常に狭い地が続き、かつては米一粒も穫れなかったと書かれている。

【作業日誌 1/20】
ウッドデッキ、パラソル立て作製
玄関用すのこ作製

【今日のじょん】:雪はこんな感じに解けておりやす。P1030726





一昨日良い写真が撮れたのでご披露する。P1030718 P1030721  

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